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(Kashmir3D+スーパー地形セット+地理院地図)

蟹ヶ谷の「谷」に関して。凸凹地図を見ると、なぜ東横線が日吉台地を突っ切っているのか、ちょっと疑問に感じる。

 
(Kashmir3D+スーパー地形セット+今昔マップ首都圏1896-1909。地図画像が欠けている部分はなぜか画像の取得ができなかったところ)

東横線ができる前の地形図。低地部を通らない理由は、地形図からはわからない。

 
(Kashmir3D+スーパー地形セット+今昔マップ首都圏1896-1909に加筆)

青が東横線。これを赤のようなルートにしなかったのはなぜだろう。日吉の台地上に顕著な集落があったわけでなし。矢上川は台地を開削してしまうような流れだから、地盤が…というにも、台地の南北は同じだし。

不思議。

【同日追記】
アップ後、いろいろとご教示いただきた。手老善さんからは「日吉台田園分譲地のためではないか」。なるほど、開業時から日吉台として田園都市会社が噛んで宅地開発をしたのか。その後、駅東側に慶應義塾を誘致するのに成功したのか。
●参考:港北区の歴史と文化(シリーズ わがまち港北)

馬場宇久さんからは「日吉の丘陵地を切り崩し、その土砂を新丸子駅~日吉駅間の低地に埋めた」「日吉は東急電鉄発祥の地とされている」と。周辺は田んぼなので地盤を固める必要があった。

土屋武之さんからは「東横線建設に当たって、土取場として真っ先に買収した土地です。こういう石碑があります。 電車運転前提の鉄道なら、日吉付近の丘陵地形は問題にならないはず」と。
●参考:東急電鉄発祥の地

 
いま、日吉周辺は航空写真で見てもすべて宅地なので地形が見えない。駅も南側が堀割で、上は覆われているのでよくわからない。しかし、上記『東京時層地図 昭和戦前期』を見ると、元住吉駅付近から築堤があり、高さを稼いで矢上川を渡り、対岸の高台(赤い丸)に着地している。その高台も線路西側は切り取った跡があり、東側のほうが高いようだ。しかし、現在の地形図を見ると線路の東側もだいぶ切り取られたようだ。

前後は25‰だと思うので、確かに最初から電車運転なら関係ないのだけれど、とはいえ経済性からは平坦に越したことはないはず…という疑問もちょっと残る。駅をそこに設置したのは「元住吉から築堤にする必要はあるが、どうせ矢上川部分も嵩上げしなきゃいけないし、ならばそのまま台地に上げれば(開業時は地平ホーム)西側の宅地と東側の大学誘致(開業時は未定ですが)に合理的だった」という感じだろうか。

【同日追記2】
 
さらに、彩葉さんのご教示によると、「当初の武蔵電鉄の免許ルートは上述赤のルートに近い。構想時はさらに南」という。合わせてご教示いただいた『東京横浜電鉄沿革史』には変更した経路として「中原村上丸子-住吉村字市ノ坪、字木月、字苅宿-日吉村字矢上、字箕輪-大綱村字綱島」とある。これを『東京時層地図』の「文明開化期」(迅速測図)にプロットしてみるとこうなる。赤線がその地名。
 
青線が現在の東横線。「苅宿村」が外れている。これは、現在の川崎市苅宿も同じで、はずれている。もしかしたらかつては苅宿村が文字の位置よりも西にずっと延びていたのかもしれないが、ちょっと恣意的な憶測に過ぎるか。であればググッと丘陵を迂回する計画だったのか、と思わなくもないが、箕輪の位置と合わなくなる。

また「沿革誌の多摩川-神奈川間開通時の記述を見ると、切取量より盛土量の方がかなり多いので、土砂の要求が高かったようではあります」とのこと。なるほど、少しでも切り取りたかったのかもしれない。別の場所から土を買うよりも自社の用地でまかなうほうがよい。

もちろん、鉄道の経路選択には複数の要因があるはずで、一概に結論は出せないが、このような経緯だったのではないか…ということでまとめておく。
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