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(このページの地図はすべてkashmir3D+DEM5m+数値地図25000。写真ともクリックで拡大)

新潟県の新潟市秋葉区…というよりも新津(左下角)の東には、阿賀野川が幾たびも川筋を変えた跡が明確に地形に残っている。南北に流れる太いのが阿賀野川、そこから北西に枝分かれしているのが小阿賀野川(かつての阿賀野川本流、信濃川に至る)、阿賀野川の西を北西に流れて小阿賀野川にぶつかるのが能代(のうだい)川だ。

河川が暴れる地は豊穣の地でもある。阿賀野川と小阿賀野川の分流点の北にある沢海(そうみ)地区には、全国有数の地主・小林家があり、その邸宅と民俗資料は日本初の私設博物館である「北方文化博物館」となっている。書き込むと下記のようになる。

 
北方文化博物館では「沢海まちあるき」を開催している。2015年からガイドつきのウォーキングツアーを開催するとのことで、そのモニター的街歩きに参加してきた。その後、上の「旧河道」と「旧旧河道」を見に行ってきた。

まずは旧河道。
(1)地点より(地図中はマル数字だが、表示の互換性を考えて文章では括弧書きとする)。少し道路が高くなっていて、その左右に田が広がる。写真右、奥に向かう未舗装の道はかつての左岸で、その右は畑で一段高くなっている。上記地図ではわかりづらいので、さらに別の地図を。

 

「阿賀野(一)」「阿賀野(二)」となっている部分が「焼山地区」で、畑だ。ここだけ高台で水がとれないから畑なのだろうか。旧河道が田。その高低差は2m近くある印象だ。

旧河道に黄色を乗せてみると、こんな感じになる。

旧河道の中央には用水路がある。
おもしろいのは、ここが行政界になっている。同時に道路の管理も変わる。「道路管理界」という標識とともに、左(左岸)は新潟市で道路は新潟市江南区建設課、右(右岸)は阿賀野市で同じく新発田市地域振興局の管理となる。

次いで、(2)地点から、旧河道を挟んで右岸側を見る。
赤い矢印は流路方向。ここに来ると、両側には堤防があるために、川底にいる気持ちになってくる。おもしろいのは、旧河道を横切る形で用水路が設けられていることだ。正面の堤防をアンダーパスしているが、堤防の上には次の写真のように用水路があるので、立体交差していることになる。しかし、25000図では接続しているかのように書いてある。

  旧河道の右岸の堤防上には用水路があり、歩いていくとこれが越えられない。川の水はなくなって川を横断できるのに、堤防上を横断できないのだ。

さてこの旧河道はいつから「旧」になったのかというと、1924年(大正13年)だ。1913年(大正2年)の「木津切れ」による水害を契機に1915年(大正4年)に改良告示、1918年(大正7年)に着工した。そして沢海地区は現在の本流により分断された。そのため、現在も沢海から見て対岸の「焼山地区」(地名は沢海)が阿賀野市に取り囲まれる形で新潟市江南区となっている。

* * *

次に、旧旧河道に向かった。

(3)地点、旧旧河道の右岸から。対岸に見えるこんもりした部分が「京ヶ島」である。

当日同行していたN氏が近くで畑仕事をしていた方に声をかけると、「おじいさんなら知ってるかもしれない、家にいるから聞きにいったらいい」と言ってくださった。図々しくも大きな家の玄関で「ごめんください」と声をかけると、70代の男性が出てきていろいろとお話をしてくださった。

男性はかつてそこで材木商を営んでおり、その祖父の代には旧河道を利用して流送していたとのこと。河道の切り替えの話をすると「写真があるから上がって見てみろ」とまでおっしゃり、さらに厚かましくも木の香り漂う邸宅にお邪魔した。そこには祖父、父などの遺影とともに一枚の写真が額となって掲げられていた。写真の額には筏を詠んだ短歌の色紙が入っていた。

河道が切り替えられた後、堤防を切り崩して干拓をしたそうだ。そしてできた新しい土地は周辺の住人に払い下げられ、田になった。家によって払い下げの面積は違ったが、その基準はわからない。

また、ここには渡し船があった。ある暴風雨の日に渡し船が転覆し、あわや溺死しそうになった人がいて、その人を祖父が助けたという。その表彰状も額装されていた。

諏訪神社。

(4)地点。
旧河道の右岸堤防を歩く。画面右は旧河道、左は旧旧河道。

さて、旧旧河道の右岸を遡る形で、京ヶ島の「川岸」を歩く。
(5)地点から。右は住宅地、道路が旧旧河道の堤防、左は旧旧河道。

旧旧河道に黄色を乗せてみる。ここはいま、水田だ。

途中から県道27号になる。こうして歩いていると、左の家並みの向こうに大河があったとは信じられない。

  京ヶ島の諏訪神社。ここには「町道記念碑」があった。「大正二年五月再建」「従二位伯爵源重明書」等とあるが、この旧旧河道左岸に道をつけた、ということなのだろうか。また「再建」というのも気になるが、それ以上の情報はない。

やがて国道460号にぶつかると旧旧河道の痕跡はわかりづらくなった。そのまま京ヶ瀬駅に向かった。


Spcl Thnx to Mr.I and Mr.N



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