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映画や漫画に描かれる背景に、目くじらを立てるべきではない。たとえば、東京から九州に列車で移動するシーンに東北や北陸のシーンが描かれても、それは本筋ではないし、非電化区間に電車が描かれていてもいいだろう。でも、それをわかった上で読むのもまたおもしろい。

ここで採り上げるのは、手塚治虫の『レボリューション』だ。私の古巣、『週刊漫画サンデー』1973年1月6日+13日号と翌1月20日号に分けて掲載されたものだ。この原稿を、私が会社に入ったときの上司がとっていたのだと思うと感慨深いが、まあ、それはそれとして。

「山口県大里村」という地名が出てきたあと、この男女は東京からそこへ向かう。このコマ以前に「山口県大津郡大里村伊豆山」とあって、大津郡はいまの長門市。長門市内の長門三隅駅から三隅川を遡ったところに「大里(だいり)」という地名がある。別のコマで「おおさと ←くまがい やぶき→」という駅名標が出てくるが、手塚がこれを「だいり」と読むとは知らず、地図から「おおさと」と読み誤って記載したかもしれない。「くまがい」「やぶき」はわからない。小郡には「大里(おおり)」があるが、海沿いなので違うだろう。「伊豆山」は現在の地名にはないようだ。

そして、次のシーンに移る。

まず、上のコマから。これは、明らかに、城東貨物線の澱川橋梁…通称「赤川鉄橋」だ。複線のトラス橋に単線が敷かれ、余った片側は板張りの歩行者用通路となっていた。いま、「おおさか東線」の整備のために電化され、複線化工事がなされている。

ここに歩道用通路が敷かれたのがいつなのかはわからない。歩道部分が閉鎖される際によくニュースに上がっていたっが、どれも「いつから」がなかった。橋が架けられた昭和4年からとしているものすらあったが、そんなわけはなかろう。それなら、上のようなコマが描かれるわけがない。画像検索すると、1967年の写真では既に歩道はあるが、このサイトの最下段の写真では、まだ歩道がないように見える。

線路は下流側に敷かれているので、この構図は、放出から吹田に向かうものだ。機関車はC62、縁室扉下が三角形になっているので日立製だ。ヘッドマークがあるから特急だろう。ここは現在に至るまで貨物線なので、旅客列車は通らないはずだから、「歩道のない時代の赤川鉄橋の写真」と「C62の特急の写真」を、この絵の中で合成してしまったのかもしれない。描かれた車輪の位置や機関車が載っかっている位置そのものが、明らかにレールと合ってない。


下のコマは、円筒形の煉瓦積橋脚+ガーダー橋か。客車がずいぶん寸詰まりに描かれていて、仮に機関車をC62とすると全長約21.5m、それが桁の上に収まらないのだから、プレートガーダーの支間は20mくらいか。となると客車は13mくらいになってしまっているが、これが、漫画家の脳内にある「機関車と客車のバランス」なのだろう。

* * *

などということを書いたが、私は、本来こうした漫画の絵というものは、写真のトレースではなく、頭の中での空想を起こしたものだったり、うまくデフォルメして描き直すのが正しいと思っている。だから、この手塚の絵が間違っているとかの意図ではない。単なるロケ地巡りとして読んでいただきたい。
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