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(kashmir3D+地理院地図(空中写真1974-1978)+スーパー地形に加筆)

国鉄末期に廃止になった羽幌線。もちろん、ぼくは乗ったことはないが、深川-留萠-羽幌方面のルートを見ると、留萌川を2回、渡っていることに気づいた。えてして鉄道はこうした大きな川を渡ることを嫌うものだ。もちろん、無理して渡った方がメリットは大きい。

これに気づいたのは、『蒸気機関車EX』23号で椎橋俊之さんが『留萠本線・羽幌線 黒ダイヤの通う道』と題して留萠機関支区乗務員の話を書いておられ、そこに東留萠信号場の話が出てきたことによる。東留萠信号場はどこにあったのかな…と地図と空中写真で見て、なぜそこに信号場が設けられ、そこから(のちの:以下略)羽幌線が分岐したか、合点がいった。

上の空中写真をご覧いただくと一目瞭然だが、これは、留萌川を渡らずに羽幌方面に向かおうとしている。1948年の空中写真にも、すでに廃止されて6年が経っているが、その痕跡が見て取れる。これは、鉄道を簡便に敷設する術としては納得できる。

しかし、これでは羽幌方面から来た列車は東留萠信号場でスイッチバックして留萠駅に入り、さらにその先の石炭桟橋まで行かなければならない。その際、東留萠信号場―留萠間を支障する。旅客列車も同様だ。それを解消するために、1941年に留萠―三泊間を新ルートに切り替えた。年表にするとこうなる。

・1927(昭和2)年 留萠線支線 東留萠信号場―三泊―大椴間開業
・1931(昭和6)年 留萠線支線を羽幌線に改称
・1932(昭和7)年 留萠に高価桟橋完成
・1941(昭和16)年12月9日 羽幌線築別延伸。留萠―三泊間新線に切り替え。東留萠信号場廃止
         12月16日 羽幌炭礦鉄道築別―築別炭礦間開業

ということで、築別炭礦からの石炭は、この旧ルートは通っていない。


新線切り替えは、鉄道誌にあるような概念図だけでは意味を理解できない。地形を立体的に表現した地形図や空中写真を参照してこそ。鉄道誌は、そのあたりをぜひ考慮して欲しい。図版の制作は承りますよ。

* * *

同日追記

@Tempoku2000さんから、下記のようなコメントをいただいた。

『国鉄全線各駅停車1 北海道』(1983年)掲載の配線図を見ると、たしかに手前から分岐している。そして、留萠本線用のホームに入るルートからは、そちらに抜けられない。ご指摘ありがとうございました。

* * *

なお、大河川を2回渡ってまで作られた駅としては、東海道本線大阪駅がある。逆に、大河川を渡るのを諦めた路線としては、越後鉄道長岡線が、長岡駅ではなく来迎寺駅につなげた例がある。
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