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「暗渠マニアックス」のお二人による、すごい本が出た。タイトルがいい。『水路上観察入門』。かの『路上観察入門』に1文字加えただけで、こんなに意味が変わるとは。実はタイトルは著者それぞれで意味が異なる。吉村さんは「"水路上"観察」であり、髙山さんは「"水"路上観察入門」。それぞれが「第1部」「第2部」となり、本書はそれらが半分ずつで構成されている。

書きたいことは山ほどあるが、個々の内容の紹介はきっと他の方々もすると思うので、「路上観察」の観点から書く。


※私は『片手袋研究入門』の石井公二さんと、いわゆる「路上観察」界隈のお話を聞く「都市のラス・メニーナス」という配信をしているのだけれど、その流れです。

※私自身は「路上観察」というと、初出から40年近くが経って当時の社会情勢を前提としない解釈がほとんどとなり輪廓がぼやけてきたこと、また「路上」に限らないものへも同じまなざしを送ることから、内海慶一さん提唱の「都市鑑賞」と言っています。しかし、本書の書名からして、ここでは「路上観察」と書きます。


まず、本書を手に取った方は、吉村さんの「はじめに」と髙山さんの「おわりに」を読んでほしい。本書のコンセプトは、林丈二さんの慧眼から発している。林さんは(きっと)すでに何十年も前に、「暗渠と路上観察」を一言で言い表す答えを用意していたのだ。日々、いろいろなものを見て、それについて考察している我々が掴めていない、はるかな高みからの視点を与えてくださった。



お二人に限らず、たぶん、好きなものに夢中になり、それをアウトプットしている方々は、それが、外から見たらどう定義されるものなのかというのは考えない。考える必要がない。他人に説明する義理もない。でも、林さんの言葉をきっかけに、吉村さんは自身の関心が「"水路上"観察」であることに気づき、髙山さんは「"水"路上観察入門」だと気づいた。その気づきをもって、お二人がご自身の活動を「路上観察」の観点で捉え直したものが本書だ。

いままでのお二人の活動は、私が見てきた範囲では、外部からは地図・地理系の視点で見られることが多かったと思う。東京カルチャーカルチャーに登壇されたのは「地図ナイト」であり「スリバチナイト」だったし、雑誌『東京人』での特集もその系統だった。

* * *

吉村さんの「"水路上"観察」と、髙山さんの「"水"路上観察入門」。乱暴にまとめれば、吉村さんの視線は、人の介入を含んだ歴史であり、水路ありきだ。一方、髙山さんのはそれらをいったん捨象してパーツにバラしたあとで整理したものだ。



吉村さんは、一定の基準で集めはするけれど、その個々を定義づけて分類したり分類の基準を語ったりはあまりしない。「どうぞ」と一斉に公開する。鑑賞に委ねる。村田あやこさんの「路上園芸」と似たスタンス。


端的なのが「自前階段」。あまりに「ありもの」を現物合わせで置かれているものなので、そもそも規格も基準もない。でも、そこに惹かれるのが、吉村さん。
 

髙山さんは、イベントでのプレゼンでもそうだが、マトリクスやフレームワークを多用する。見たものをどこかに分類する。人為は鑑賞の添え書きとはならず、人為までもがいったん数値化される。これは、石井公二さんの「片手袋研究」と似たスタンスだと感じる。



そのスタンスでいえば、髙山さんの「誰もが心の中に暗渠を抱えている」という言い回しは、石井さんの「あらゆるものは片手袋である」という考察結果と共通するものを感じるし、一見、分類しやすそうな「暗橋」(あんきょう=暗渠に残る、かつて水路に架かっていた橋の痕跡)でさえ、フレームワークからはみだすものが多いと書いているのは、石井さんが、片手袋で分類できるのは2割くらいだと言っているのと共通する。

マニアは、ものごとを知れば知るほど「知らない」ことを認識する。いろいろな「無意識による顕れ」を定義づけようとすると「定義できないことのほうが多い」という点に収斂していくのは、考察の深さの結果だ。


(石井公二「かたてブログ」より)

* * *



先に「お二人の活動は、私が見てきた範囲では、外部からは地図・地理系の視点で見られることが多かった」と書いたが、「暗渠」は、地図・地形ファンにも、路上観察ファンにも強い訴求力を持つ。暗渠は「境界をつくるもの」ではあるが、境界は、両側から必要とされるものでもある。私がいま思いついていないだけで、また別のものとの境界になっているかもしれない。そうしたことを考えるのはおもしろいし、自分や界隈の視点そのものをさらに俯瞰する視点を与えてくれる。

そういえば、私が「ドボクファン注目の30橋」という記事で参加した『東京人』2020年7月号「特集:橋とドボク」に、髙山さんの「 『暗橋』探訪 かつての橋の欠片たち」の記事があり、驚いた。驚いたというのは、この特集はドボク界隈の視点(+人文系)だとばかり思っていたからだ。そこに、地図・地形界隈と思っていた、暗渠からのアプローチ。こういうまとめ方があったか!と楽しく拝読した。

また、同じく『東京人』2021年3月号「特集:階段で歩く東京の凸凹」に、吉村さんの「暗渠にくっついた、愛しき階段」がある。これらは『東京人』編集者のTさんの発案だと思うが、Tさんもまた、『東京人』各号の特集を通じて、こうした境界を認識し、乗り越えさせてくれる重要な役割をいつも担ってくれていると改めて尊敬の念を抱く。

* * *

本書のサブタイトルは「まち歩きが楽しくなる」である。暗渠そのものの情報ではなく、暗渠に散らばっているいろいろなこと・ものをまとめたものだ。だから、いままでは地図・地形に興味がなくて暗渠は「ああ、あるね」くらいのスタンスだった、路上観察が好きな方にこそ見て欲しい。そこにはきっと、「あ、そのまなざし!」と自分と同じものを感じ、自分で言葉を継ぎたくなる記述が山のように見つかるはずだ。


* * *

おまけ。


古戸越橋は、たまたま撮っていた。2014年の撮影。この橋は2016年にしながわ中央公園に移設されたとのこと。

 
新潟市の万国橋のすぐ西にある暗橋。たしか銘板はなかった気がする。

 
鶴瀬の扇田橋。

あと、「唐突にある謎の池」、思い当たることがある。髙山さんもブログ「暗渠ハンター 練馬の谷一気攻め①羽沢支流のトタン塀」で書いている羽沢支流。

この羽沢支流の暗渠道を、亀が這っていたことがある。このあたりのおうちのお庭に池があり、亀がたくさんいて、たぶんそれが逃げ出したもの。そこのお宅を訪ね、無事に返すことができた。吉村さんの「謎の池」は、それが裏付けのある論かとかそういう話ではなくて、とてもおもしろい見方だと思うし、実際にそう感じてくる。きっとそれも、ものすごくたくさんの暗渠を見たからこその顕れだし、そういう直感は、たいていの場合は正しい。今後、暗渠に入り込んだときは、この観点が必ず脳裏に浮かぶことになるだろう。










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