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熊本県の三角線の橋梁。三角線は九州鉄道が比較的初期に敷設した路線で、開業は1899年と、歴史が非常に古い。この桁はハーコート製だ。(とは、かつての歴史的鋼橋集覧には記載がなかったような気がするが、その後身である歴史的鋼橋検索ではそうある)

 
車両の大型化に伴う補強とのことだが、いつの改造かはちょっとわからない。「鉄道における鋼橋の改造と補修」(野澤伸一郎)によれば、陸羽西線の界川橋梁の補強が1948年で、「全国約で700連がフィンク補強されたといわれている」とあるので、その頃だろうか。国鉄蒸機の制式機への集約の時期を考えてもそのころか。

『機関車表』(沖田祐作)によれば、熊本にC11が配置された最初は1950年10月15日のC11 190である。動機は大井川鉄道での動態保存機として知られ、いまはトーマスとなっている。ただし、ほかに1955年8月1日「現在」熊本配置ながらそれ以前の経歴不明のC11も多数ある。

なお、それC11以前はどの形式が使われていたかはわからない。戦後まで2120が熊本に配置されていたのは確認している。しかし、軸重でいえば、2120>C11だ。

【同日修正】
ドボ博「川はマイナーだけど、鉄道構造物ではそこそこ~超有名な川番付」では「
大正時代末から昭和時代初期にかけて桁のフィンクトラス補強が行われた」とある。

同論文には、支間が20ftを超えるとクイーンポスト形式となる、とある。波多第4橋梁は支間9.17m。「この程度の短さなのに…」と考えてしまうが、それは現代の水準で作られた橋梁ばかり見ているからそう思ってしまうのだろう。

 
橋梁下部には、補強を点検するための通路が設置されている。それだけ頻繁に点検する必要があるのだろう。鳥除けだろうか、そこにネットがかかっているので、補強の美しい姿が隠されてしまっている。2013年のストリートビューにはこのネットはない。

 
塗装標記。「支間10M09」とあり、「歴史的鋼橋検索」の「強調10.07m、最大支間長9.17m」とは数値が異なる。

 
反対側から。

 
元の位置で引いて見る。一般道と同時に河川も跨いでいる。この川は、GoogleMapsでは「八柳川(はちやながわ)」と表示されるが、「川の名前を調べる地図」では「波多川」となっている。本流は波多川であり、八柳川は支流。石打ダムがあるのが八柳川だ。

また、この道路はこの部分で桟橋状に河川上の張り出しているのわかる。開業時は車道ではないので、車道への改良時にこのようになったものだろう。波多第4橋梁も、その下の道路も、それぞれ近代化改修がなされている。











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なんとも遠くに見える、小さな橋。あそこまで沢を降りてからでないと対岸に渡れないのか。

いや、それはいま、平瀬ダムのために国道434号がかなり高い位置に付け替えられ、そこから降りてこなくてはならないことからの印象だ。本来は、いま写真を撮っているほぼこの高さを国道434号が走っていたのだ。この橋は、錦川右岸(南側)の国道と、左岸(北側)の県道361号錦鹿野線を結ぶルートにあった。

写真は東側から。コンクリート桁橋2連の向こうに、ポニーボーストリングトラス。

こうしてみると、ボーストリングトラスは圧迫感がない、すぐれた形状に思えてくる。

トラス部の手すりは、うまく部材をかいくぐるかのように、幅員を狭めない位置に取り付けてある。

このように避けている。

このボーストリングトラスはピントラスだ。だから、下弦材はアイバー。しかし、場所の都合で、アイバーの側面は近寄って写真を撮れない。

垂直材を持つタイプのワーレントラスだが、「\|/」という形状になる垂直材と上弦の接合部はピンではない。突き当ててのボルトの結合だ。非常に頼りない結合に見えるが、そもそも上弦からの圧縮力を鉛直方向に伝えるためのものなので、剛結していなくてもいいくらいなのかもしれない。

対岸、西側。こう見ると、やはり形状からくる視距の長さが目立つ。

一部の部材は腐蝕で穴が開いている。これはまずかろう。

一部の部材には、鋼材の製造所と思われる「(F.)A.H.A.V.(F)」とある。A.H.A.V.とはAachener Hütten-Aktien-Vereinの略だが、詳細はよく解読できない。下記にドイツ語版wikipediaの記事へのリンクを貼る。

http://de.wikipedia.org/wiki/Rothe_Erde


歴史的鋼橋集覧によると、この橋は、平瀬ダムの湖底に沈むという。すでに、かつての国道434号鳥越隧道は通行止めとされている。急げ。

現地の東にある「ダム軸」。先に示した平瀬ダムの完成予想図を見ても、ここに堤体が築かれるのだろう。


ハーコート探訪:小石川橋通架道橋
ハーコート探訪:小石川橋通架道橋(2)
ハーコート探訪:小石川橋通架道橋(3)
に関連して。

2011年2月20日(日曜)、東京キャナルネットワークさんから「暗渠クルーズあるよ。水道橋経由飯田橋まで行くよ」という告知があったので、参加した。ルートはこうだ。
20110220map1.jpg(DAN杉本氏作成のカシミール3Dを使用してマッピング)
浜離宮から隅田川を少し東上し、亀島川(地図のA)で日本橋川に出る。そこで左折、そのまま水道橋まで進むと(ココ後述、B)神田川に合流するので左折。すぐに、右に暗渠の入り口が見えてくるので
20110220-01.JPG中に突入(C)。真っ暗かつ湿気の多い中、
20110220-02.JPG神田川の北に平行する暗渠を進み、飯田橋交差点の少し北に出る。

そこから折り返し、神田川を御茶ノ水へと下り、隅田川で浜離宮へと戻るというコースだった。約2時間、一瞬のように感じた、見るものすべてが新鮮な2時間だった。


さて、小石川橋通架道橋を、水面から見上げる機会となったのでここに上げる。暗渠も面白そうだったのだが、このクルーズに参加した一番の目的はこれを見るためだ。

20110220-03.JPG小石川橋通架道橋の南側。

手前の「裏側」は、車道の新三崎橋。その向こうのプレートガーダーは中央本線(急行線)、トラスがハーコート製の中央本線(緩行線)、その向こうが車道の三崎橋だ。

20110220-04.JPG近づく。橋台に見とれている時間はない(涙)。

20110220-05.JPG桁裏! 道路からは絶対に見ることができません。

17mmではまったく刃が立たず。あたりまえか。かといって15mmで撮るわけにもいかず、まあ、この写真をアップすることに意義があろう。小石川橋通架道橋の裏側。


この、小石川橋通架道橋の裏を見ることができると知ったのは、デイリーポータルZに書かれた大山顕さんの記事、『夜の都市河川クルーズはちょうすてき!』だ。3ページ目冒頭に写真がある。そして、youtubeにはmechapandaさんの動画があがっている。13分過ぎに注目して欲しい。

こうしたものを見ることができると知ることができたのも、実際に見ることができたのも、ツイッターのおかげだ。きっかけを与えてくださった方々に感謝します。


暗渠クルーズについては続く。

先に曖昧なことを書いたが、『鉄道ファン』2009年5月号を引っ張り出してきた。先の小石川橋通り架道橋の第3連の下部、物置状の部分について書く。実は一度ほぼ書き上げたが、うっかり消失してしまい、呆然とした。

さて、この小石川橋通り架道橋という名称からして微妙である。この橋が渡るのは道路2本と日本橋川であり、日本橋川を渡るトラスの両側にかかる道路橋は「三崎橋」「新三崎橋」であるから、これも「三崎橋架道橋」でいいではないか。しかし、ここから謎解きは始まる。「小石川橋通り」が鍵を握るのである。

小石川橋通りは、日本橋川に沿った道路である。日本橋川は、神田川からこの小石川橋付近で分流し、神田川の荒川合流点より下流の永代橋付近で荒川に注ぐ、バイパスのような川である。しかし、もともとは日本橋川の流路が先にあり、神田川は開削された川で、1620年に完成したものだ。その土砂で(と記憶しているが、ソースは失念)日本橋川は堀留まで埋めたてられ、以後、明治時代に入っての都市計画で再開削されるまで283年間、埋まっていた。再開削が完成したのは1903年で、それにあわせてこの区間に鉄道が通り、1904年ハーコート製の桁が架かることになる。


その開削計画である。計画では、川幅12間で開削し、左岸(東側、御茶ノ水側)には道路を、右岸(西側、飯田橋側)には物揚場(河岸)と道路を設ける予定だった。小石川橋通り架道橋の、第2連、第1連、第3連、第4連がそれぞれに対応している。ところが、計画が変更され、物揚場を取りやめ、道路とすることにした。そこで甲武鉄道は、道路の真ん中に40ftと40ftの桁を支える橋脚が来ることを厭い、もともと70ft+80ft+40ft+40ftで計画していた4連の橋梁を、70ft+80ft+70ftの3連に変更したいと言い出した。しかし、東京府はそれを却下する。道路の幅が10ft狭くなるからであろう、と小野田滋氏は考察している。そのため、現在も第3連の下は道路にもならずに、物置状になったままである。


さて、この第3連と、トラスの第2連との間の橋脚が特徴的である。
20100104.jpgこれは第2連から第3連方向を見ているが、橋脚の幅が広い。通常、鈑桁と同じ幅だと思うが、それより広く見える。また、幅の広い下路鈑桁と、幅の狭いトラスを支えるため、トラス側は、トラスを包み込むようになっている。小野田氏はこれを「独特のスタイル」と評しているので、あまり見られないのであろう。たしかに、上路トラスと下路鈑桁が続く、というのは、ないことはないだろうが、不自然ではある。通常は、上路トラスに続くのは上路鈑桁である。そして、上路トラスの橋門構が、隣接する鈑桁の橋脚の役割を果たす。あるいは、下路トラスと上路鈑桁の場合、上路鈑桁が包み込まれるようになる。前者の例として磐越西線一ノ戸川橋梁の例を挙げる。
20100104-1.jpg




















さて、小石川橋通り架道橋第3連のトラス桁は25.4メートル、きっちり1000インチ=83フィート4インチである。当時の橋梁定規では、80フィートまでは鈑桁で、100フィート以上はトラス桁とされていた。

ここで、このトラスが跨ぐのが12間であったことを考えよう。12間は21.82メートルである。25.4メートルもない。71フィート7インチ=859インチである。では、なにも特殊なトラス桁を設計しなくても、80フィート鈑桁を設置しておけばいいではないか。そのようにも思える。この点に関して、小野田滋氏は
・河川幅に対して支間に余裕を持たせる
・下路トラスは都市景観を阻害する(いまのように首都高はない!)
・上路トラスでもok
と推定している。


なお、橋梁定規の制定年を見ると、
●鈑桁
・1893~1894年 ポーナルが制定した20~80フィート鈑桁定規(ポーナル型)
・1902年 杉文三がアメリカン・ブリッジの基準を使って制定した20~80フィート鈑桁定規(ポーナル型廃止)
●トラス桁
・1898年 クーパー+シュナイダーによる、100~200フィートトラス桁定規(クーパー型トラス、計10種)
となっている。
このあたりは、自分用としても一度、整理しなくてはならない。


※参考「東京鉄道遺産をめぐる7 ドイツ生まれのトラス橋 小石川橋通り架道橋(緩行線)」(小野田滋、鉄道ファン2009年5月号所収、交友社)
20100102-1.jpg小石川橋通架道橋の、飯田橋寄りの2連の北側(外堀通り側)である。歴史的鋼橋集覧において、第3連・4連とされている部分である。手前の2連が1904年ハーコート製の2主構鈑桁で緩行線(総武線)、奥というかその向こう側が1932年開通の3主構道床式の急行線(快速線)である。緩行線の第4連には銘板がある。

第4連が跨いでいるのが小石川橋通りで、第3連の下は物置的スペースになっている。この部分に関する考察が『鉄道ファン』2008年3月号か4月号に掲載されていたと記憶している。


20100102-2.jpgハーコート製2主構の裏側。画面に見えている橋台は飯田橋側で、「はり紙禁止」の筆文字が似つかわしい。橋台下部を見ると、道路が画面右から左に向けて上り坂なのがわかる。

この筆文字にある「新 保線区」というのはなんだろう? 新橋? こうした方面には疎いので、調べる術がすぐに思いつかない。いずれにしろ、国鉄時代の名称であろう。この「はり紙禁止」は水道橋周辺には多数貼られている。



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