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本日発売された『鉄道ファン』2010年11月号の『東京鉄道遺産をめぐる21 帝都復興事業と万世橋付近 万世橋架道橋』(小野田滋)で、ついに万世橋架道橋が採り上げられた。場所はここである。



以前、このブログでも2回、適当なことを書き散らした。

鉄製橋脚 万世橋架道橋
この区間(東京-万世橋間)が開通したのは1919年(大正8年)。そして、この曲線桁が架けられたのが1928年(昭和3年)。関東大震災のためだろうか
(注:当時は「鋼製橋脚」と題していたが、鋳鉄じゃねえか!)

万世橋架道橋への期待
4月9日の記事『万世橋架道橋』を書いたときに気づいた、開通時と桁架設時の時期の違いの理由はいまだに不明だが、『鉄道ファン』の不定期連載「東京鉄道遺産をめぐる」が東京-万世橋間市街高架線を採り上げ始めたので、きっと明らかになるに違いない。wktkして待つ。


ようやく、その疑問が解決された。小野田氏の記事に寄れば、やはりというか、初代の桁は直線桁を角度をつけて接続し、その上に曲線の線路を敷いていたのであった。写真まで掲載されている。写真の出典は『市街高架線東京万世橋間建設紀要』。これは、国会図書館のデジタルライブラリーに収録されているのでざっと目を通したことはあったが、写真のスキャンが適当なため、正直なところ、写真は見るき気もしなかった。しかし、ここに初代万世橋架道橋が写っていたのだ。自分を恥じるしかない。もちろん『鉄道ファン』誌に掲載されているものは鮮明だ。

初代の橋はここに掲載されていた(下段)。


(リンク元=国立国会図書館デジタルライブラリー

よく見えないとは思う。画像はこちらの28ページに、資料全体はこちらにある。


ともあれ、すっきりした。初代の橋が3径間であったこと、橋台は初代のものを引き継いで使っていることが解説してあった。まだ、黒田武定についても、1/2ページを割いて解説している。今月の『鉄道ファン』は、この記事のためだけに買ってもいいし、これだけに倍の値段出してもいい。


ついでに。同記事に記載されていたのだが、水害で不通になり廃止となった高千穂鉄道の第二五ヶ瀬川橋梁は、こことは別の方法で曲線区間でプレートガーダーを使用していたという。なんでも、主桁(つまり両側のプレート)は直線のまま、縦桁を「階段状にシフト」させたものだそうで、どういうものかを知りたかったのだが、画像検索しても、残念ながら水害で流された後の悲惨な画像ばかりが出てきていたたまれたなくなった。こんな橋の裏側を撮っている方などいるまい。
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