先に紹介した東海道本線上淀川橋梁と、新大阪駅を中心に点対称にした位置にあるのがこの上神崎川橋梁である。 ここはJRの4複線。上の航空写真の右端から、 1)この上神崎橋梁(下り内外線/単線ポニーワーレントラスの並列/1912年●月●日開通) #内外線=東海道本線の電車線・列車線の下り。 2)上り内外線(複線ワーレントラス/1930年10月15日開通) 3)梅田貨物線(上下/複線ワーレントラス/1930年10月15日開通) 4)北方貨物線(上下/単線プレートガーダーの並列)。 うち、2)3)は同型である。 この上神崎川橋梁、上写真の右側(北側/右岸側)2連が1912年アメリカン・ブリッジ製である。左側(南側/左岸側)の2連は、のちに増設された桁で、1923年汽車製造会社製である。一見、4連とも同じに見えるがディテールが異なる。 また、橋台・橋脚も見ていただきたいのだが、橋台は煉瓦製、橋脚は鉄筋コンクリート製である。これについては後述する。 手前(画像左)が汽車製、奥(画像右)がアメリカン・ブリッジ製。端柱と斜材が大きく違っている。 汽車線は、端柱も、引張力を負担する斜材(逆ハの字型、端部のみ)はアングル材+板材。アメリカン・ブリッジ製は、どちらもアングル材+レーシングである。汽車製のは、他の斜材は肉抜きの意味でアングル材を梯状につないでいる。 裏側に潜ってみる。 外側線。下弦材の格点に、ガッチリと横桁が接続されている。その横桁の間を、縦桁がつないでいる。 橋脚はコンクリート製。 内側線。外側線と変わらない。 なぜか、並列する外側線・内側線それぞれのトラス桁の間に、レールが渡されている。なんのためかはわからないが、踏み板があるのかもしれない。 振り返って橋台。 外側線の橋台。 内側線の橋台。 見比べると、支承が異なる。外側線は、橋台側が固定で橋脚川がローラー式。内側線は逆で、橋台側がローラー式で橋脚川が固定。前述の、桁裏の写真も合わせてみると、それがわかる。 桁落下防止用の部材は外側線と内側線で高さが異なるが、これは単に「皿」型の上面の部材が干渉しないように少しずらしてあるだけではないか。 橋脚側には落下防止の部材はない。 橋台を斜めから。 橋台はイギリス積み。 視線を桁に戻す。見上げてみると…… 要所要所に補修の跡がある。ボルトがある部分は確実に後年の補修だ。 さて、ここから 吹田~新大阪間の経路変更は1912年か1913年か で触れた、ルート変更の話になる。 上神崎川に架かる橋について、『本邦鉄道橋ノ沿革ニ就テ』(久保田敬一)はこのように書いている。 ここに書かれている上神崎川橋梁のスペックはこうだ。 ・1876年(明治9)年開通、1913年(大正2年)撤去 ・100フィート単線ポニーワーレントラス ・下り13連 いまは4連しかないのだから、100フィート13連というのはおかしい。これは、ここでいう上神崎川橋梁は、現在の同名橋梁とは別の位置にあったためである。即ち、ここである。 いま阪急千里線が神崎川を渡るこの場所が、かつては官設鉄道東海道線のルートだった。上淀川橋梁の記事で触れたルート変更に際し、いったんこのルートは廃止され、それが阪急によって復活を遂げて今に至っている。 撤去された13連はどうなったかというと、兵庫県の有馬線(現在の福知山線)などに転用された。そしてさらに一部は群馬県の長野原線に転用され、それらは1960年までには撤去された。 『明治時代に製作された鉄道トラス橋の歴史と現状(第3報)』(小西淳一・西野保行・淵上龍雄)によれば、上神崎川には1899年(明治32年)に上り線として2連が開通したとある。鋼製らしい。まだルート変更されていないのになぜ2連なのか。調べを進めたいと思う。 <参考文献> 『本邦鉄道橋ノ沿革ニ就テ』(久保田敬一) 『明治時代に製作された鉄道トラス橋の歴史と現状(第3報)』(小西淳一・西野保行・淵上龍雄) 『地形図でたどる鉄道史 西日本編』(今尾恵介) サイト『十三のいま昔を歩こう』内『官営鉄道と阪急千里線』 PR |
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