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「電柱・電線は、何故、埋めたくなるのか」(内田祥士)
電柱のない仮想空間の続き。

東洋大学朝霞キャンパスの、ライフデザイン学部創立10周年を記念したシンポジウム、仲綾子准教授による「建築写真には、何故、人が居ないのか」というテーマが写真論的におもしろく拝聴した。

http://www.toyo.ac.jp/site/hld/72468.html

仲さんは、学生の頃から、なぜ「建築写真」には人が写っていないのかを疑問に思っていたそう。「建築写真」とは、建築雑誌に載っているような、竣功写真やそれに近い写真をいう。そこに写っているのは「作品」であり、ほとんどの場合は人が写っていない。



個人的に、「建築」というのはとても特殊な世界に感じていて、よく趣味者が「鉄道趣味は怖いから手を出さない」というように、私 は「建築が怖い」。私が知っている建築界隈の方々の持つ視点や洞察に圧倒されるということもあるが、あるいは「建築鑑賞」には世界の芸術史にすら通じてなければならない気もする。

後者のそんな敷居の高さを感じる象徴が建築写真の存在だ。人が写っていない、無機質な、説明的な写真。心を揺さぶるような「作品性」のある写真ではない、絵葉書のような美しい写真。内輪のロジックで作られた世界。そんなイメージだ。

このことは、仲さんに限らず、他の建築関係者も、建築雑誌関係者も意識している人もいるのだ、ということを知ることができた。私はなんとなくしか建築写真を知らないので、ここでは「パースが補正された、人が写っていない、竣功写真」を「建築写真」として話を進める。的外れなことを書くかもしれないが、そのあたりはご容赦いただきたい。



仲さんの気づきと考察がいくつも展開されたのだけれど、特に印象に残ったのはプロポーザルと竣功写真の話。それは、こうだ。

建築コンペがあるとする。その建築のプロポーザルはイラストであり、そこには、建築内を闊歩する人が描いてある。しかし、描かれた人物には個性も人間性もなく、ただスケールの参考、使用例として放り込まれているだけだ。そしてそのコンペを勝ち取り、実体化したあとの竣功写真には人が写っていない



また、仲さんは「建築家は、建築家のために建築を考えてきた」(伊藤豊雄。『対談集 つなぐ建築』隈研吾著)という言葉を引き、建築雑誌を見るのは専門家であり、独自の文脈があるからこれでよい、建築雑誌は、その文脈に乗っているから、これでよいと思われていることを解説する。この説は、建築誌の編集長だったという観客の方(お名前は覚えているが、どの媒体化わからないのでここでは肩書きとする)からの
・竣功写真は人がいないのは「できた瞬間が最高の状態、あとは劣化していくだけ」だから
・建築家は受注の時点で巨額(=パトロン)を得て自分の思想を入れていく。自分に仕事が来る仕事作りをしているので、「作品の写真」を残す
・人がいないと「作品」、いると「作品ではない」。人の存在のインパクトは建築を超える、建築がかすんでしまう
というような話で補強された。



ほかにもいくつもの気づき、そこからの考察があったのだが、つまりは「写真論」に収斂していく。それはそうだ、建築写真「家」が何人もいるのだから。

現在、建築界隈は、「建築写真家」の写真論のみで展開しているようだ。しかし、『CASA BRUTUS』等に掲載される建築は、人がたくさん写っている。これは、『CASA…』に携わるカメラマンが「建築写真家」の配下にいないために起きたいい例だ。

私が思ったのは、建築写真も、後述する土木構造物写真も、「写真に記録して、そこから読み取る」ことが主眼だから、人を排除しているのではないかということ。被写体だけを見つめたいという状況は、確実にあるのだ。



「建築写真」というのは、鉄道写真でいえば、竣功写真と同じ文脈を持つ、完成された形だ。



これは西尾克三郎の代表作のひとつで、汽車製造会社(現・川崎重工)による竣功写真だ。鉄道写真というのは長らくこうした「車両の姿を記録するもの」が正統とされていて、いまの鉄道趣味誌(車両を対象とするものが多い)もその多くは形式写真ないし「編成写真」で占められている。

形式写真にはいくつかセオリーがあって、高曇りの日に、足回りまで明るく、「シチサン」で、1エンド(「前」と定義される部分)が左、蒸気機関車であればメインロッドが一番下にある、電気機関車や電車であればパンタグラフが上がっている、窓が全部閉まっている、など、まさに建築の竣功写真と同じ感覚だ。

鉄道写真は、その趣味人口の多さから、さまざまな「鉄道写真」に分化した。「作品」を撮る個性的な写真家も数多く、web上でもいろいろな写真を見ることができる。しかし、建築については、関心を持つ人の多さに比べて、あまりにも、愛好家の間での写真が発展していないのではないか。



このように、遠近感が生じることを端から諦めているのは、いかがなものか。



などと考えても、建築は、被写体が大きすぎ、動かすこともできないし自分の立ち位置も限られるというように、制約があまりに大きいから、鉄道写真と同列に言うのは酷だろう。これは、私が橋や土木構造物の写真を撮るときにも常に感じていることで、どうやっても、やはり、「もっとなんとかならないのかよ」と悶絶するような撮り方しかできていない。

 
 

建築写真は「土木写真」とも通じる、写真表現としては、ひとつの完成した型はありながらも、まだまだ愛好家による「これから」が期待できる分野だと思う。そのためには、ダムや道路の写真のように、写真から読み取るのが目的「ではない人たち」がたくさん出てこなくてはならない。そういう写真が、もう少し、建築写真の中で勢力を持ってもいいのかな、と感じる。

建築写真の手法を他のものに応用する手法は、近年、多く見かける。いまや、アオリができる撮影システムでなくても、PCで簡単にデパースでき てしまう。デパースしたものを羅列して眺めると、本来のパースを捨象できるので、新たな気づきも出るし、その表現そのものが新鮮だ。もちろん、そこには人影はない。そんな写真の流れがあるのに、本家である建築写真に逆行しろというのも妙な感じがしないでもない。

いま、鉄道マニアではないごく普通の人も、「電車の写真」は日常的に撮っている。建築や土木も、そういう被写体になったら、もっと、建築の敷居は下がるのかもしれない。


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「電柱・電線は、何故、埋めたくなるのか」(内田祥士)の続き。

大変興味深いバーチャル空間の存在を教えていただいた。それは、GoogleEarthの世界である。

見慣れた日常。Googleのストリートビューは、もちろん電柱も電線も写っている。ところが。

同じ場所を、GoogleEarthでポリゴン表示させたものだと、こうなる。人もいなければ電柱もない。電線もない。上空は、イメージとして青空になっている。どこまで歩いて行っても、人はいない。

「電線がない世界」はよい景観だと言われることが多いが、こうしてシミュレーションできるとは思いもつかなかった。



内田氏は、もう一つ、おもしろい観察を披露していた。それは、「電柱は建て替えるたびに背が高くなる」というものだ。よんますさんに、水戸芸での展示に「電柱は電信が先、電線はその20年後」というふうに書いてあったとお聞きした。電柱が多目的になれば、背は高くなる。ましてや最近のいろいろな自由化で、電柱を利用する会社は増えているだろうし、配電の電圧も高くなっているかもしれない。

先日、椎名町あたりだったかな、で見つけた3段のテーパー状になった電柱。高くなるとさまざまな改良が進むのかもしれない。






東洋大学朝霞キャンパスのライフデザイン学部10周年を記念して、連続シンポジウムが開かれているとよんますさんからお聞きしたので、そのテーマに興味を持って行ってきた。

5月23日は三つのシンポジウム…といってもトークイベントと言った方がいいと思う、大学としては「研究」「発表」から抜け出せないようだが、私はそういう意識で聴いたので、そういう感想を書く。

ライフデザイン学部開設10周年記念 人間環境デザイン学科連続シンポジウム第2回
「専門と日常 -専門家から見た非専門的な世界-」

http://www.toyo.ac.jp/uploaded/attachment/15704.pdf



さて、シンポジウムのしんがりはこれだ。

演 題:「電柱・電線は、何故、埋めたくなるのか」
副 題:「信頼を保全性の側から支える電線の壮麗なる姿」
講演者:内田祥士(専門分野:建築設計)  東洋大学教授


話は山口晃の『前に下がる 下を仰ぐ』のなかの、電柱のインスタレーションと、そこに添えられていた言葉から始まる。これをベースに「美と壮麗」という面で話は進んでいく。内田氏によれば、「壮麗」とは「何とか持ちこたえている姿」であり、「美的ではないが重要な価値を秘めた存在」と定義する。これが、電柱・電線にあてはまるというのだ。

※山口晃と電柱についてはこちらのブログに水戸芸術館での展示の写真がある。
 散財er`s memo 前に下がる下を仰ぐ



実際に、街中の電柱・電線風景およびディテールを見ながら検討を重ねる。一般に電柱には、トップに6600Vの高圧線・柱上トランス・低圧電線といった配電系統、その下に通信系統の「電線」がある。配電系は「関電工系の作品」、通信系は「NTT系の作品」と内田氏は表現し、導体かつ構造体でもある配電系と、メッセンジャーワイヤーという構造体に巻き付いた導体でしかない通信系の違い、その接続部や屈曲部にも注目していく。そして、美か醜か、と突っ込んでいく。

なぜ繁華街の上空は汚く見えるのか。それは配電系のせいなのか通信系のせいなのか。あるいは(繁華街は道路に沿ってあるので、道路を見通すと)奥行き(基幹系統)のせいなのか左右(支線系統)のせいなのか。これも写真を見ながら繙いていく(※内田氏は幹線、支線という言い方はしていないが、ここではわかりやすく言い換えた)。

商店街があるとする。インフラは道路に沿うので、実は道路に沿った幹線系統は至ってシンプルだ。問題は、そこから各家に引き込む「左右」、つまり道路を横断する電線の支線である。家側の引き込む点の高さは家によって違う。幹線から取り出し口も違う。「左右」は平行にはとうてい見えず、三次元的に斜めに横断する電線ばかりになってしまう。それが、目につく。

そして、幹線系統は大電力・大通信量であるが、スッキリしている。対して支線は一戸一戸に対応しているので小電力・小通信料であるが、醜い。そして、なんとか「壮麗」ならばいいが、「美」から「壮麗」に来たら、その先にあるのは「破綻」である。「破綻」はダメだ。

ここに至り、実は、各戸に引き込む電線は各戸の欲望と同義である、欲望は隠したいものである、醜く感じるものである、だから見えなくしたくなる…というのが、見た目からの、内田氏の考察だ。



では、埋めた方がいいのか。それは否だ。需要のグラフを用いた説明があったのだが、要するにいまは需要のピークを過ぎつつある。今後、人口も消費エネルギーも減っていく。ならば、いま醜いと思っても、いずれ電線の量は減っていく。だから、単に整理し、まとめていくだけでいいのではないか。というのが、電線のある景観も愛する内田氏の話だった。

ほか、趣味者の目としての電線の話も多数あったが、それは聴いてのお楽しみだ。とてもおもしろかった。



このお話を聞いてから、水戸芸術館の山口晃展を見たくなった。でも、先週で終わったんだよね。なお、水戸芸で見てからこの講演…ではなくて、この講演から水戸芸…という流れです、希望するのは。


善宝寺駅の駅便の続き。

善宝寺鉄道記念館の南に、農業倉庫が続いている。


真正面からはとても撮れないくらい長細く、道路に沿って建っている。増築を重ねたようで、左端と右端はつながってはいるが違う建物になっている。写真右側の道路は庄内交通の廃線跡で、つまりは線路に沿ってこの倉庫があった。駅構内の配線がどうなっていたのかはわからないが、1975年頃の空中写真を見ても、引き込み線があったようには見えない。

建築年次がバラバラなので扉はいろいろな種類があり、ひとつ、木製菱形があった。

廃線跡とは反対側。張り出した屋根の持ち送り、ここに大きなマルがあしらわれている。建築年次が違っても、この意匠は揃えられている。

改修作業をしており、扉が開いていたのでのぞき込むと、内部に学校の体育館の壁のようなものが見えた。これが倉庫の本体なのだろう。

掲げられている表札(?)には…

番号 鶴支米第7号
昭和四十七年四月一日
山形食糧事務所長
国内農産物米穀検査場所
名称(農)鶴岡10.11.12号層と前
設定期間 常置

この写真に写っている場所は倉庫と一続きではあるが、「検査場所」であり、倉庫とは別の役割を持ったところのようだ。


spcl.thnx 丸田祥三さん


庄内交通湯野浜線の善宝寺駅は「善宝寺鉄道記念館」となっているが、閉鎖されて久しい。美しかっただろうホームは雑木に覆われ、庭には雑草が生い茂っている。その庭部分に、トイレだっただろう建物がある。外観からの推測であり、実際にトイレだったかどうかはわからない。

記念館前の広場から柵越しに撮ったもの。奥がホームだ。ホームに対し反対側=駅前広場側に入口たる衝立がある。その衝立も、落ち葉などのせいか、圧迫されつつある。

窓越しに内部の様子を推測すると、天井に蛍光灯が見えるので、こちらは男子小便器か。

天地方向のパイプは建物の基礎から飛び出しているので、きっとこちら側が個室であり、このパイプは換気扇だろう。


検索しても、現在の記念館、いや記念館跡の写真ばかり出てきて、庄内交通現役当時の写真は「電車の写真」ばかり。駅舎や周辺を撮ったものがない。RMLでも見てこようか。


spcl.thnx 丸田祥三さん




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