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三菱美唄炭鉱があった場所のほど近く、美唄川に変わった橋が架かっている。橋の名称は不明。こんな状況なので、全貌は見えない。こんなときこそドローン。

 
両岸から枝が四方八方に伸びている中、Cモード(ゆっくり)で目視で慎重に操作する。橋のシルエットは、アーチ橋を逆さまにしたように見える。ここに行くまでは、日本に3例しか現存しない逆ボーストリングトラスかと思っていたが、よく見ればトラス構造ではない。上面(水平面)をランガー補強している構造だ。

 
本来は道路橋だったが、いまは併設された水道管のための存在となっているようだが、この水道管も生きているのかは不明。この先に人家等はない。

 
国土地理院の航空写真MHO632X-C12-18より。美唄川の右岸にはかつて三菱美唄炭鉱の炭住が広がっていた。そこへの出入りに使われていた橋だと思われる。現在上面に残っている木材は、道路橋の床版として使用されていたものだろうか。なお、三菱美唄炭鉱は市街地に近い三井美唄炭鉱とはまったく別。

 
道路から見た橋。「美唄市水道部」と書かれた板が、倒れた単管パイプゲートとともに地面に落ちている。


 
 
すぐ近くの炭鉱メモリアル公園の竪坑櫓、原炭ポケット、開閉所。現役時代の写真は「炭鉄港」サイトにある。

 
その下流に架かる橋。いまではまったく無人となっているが、この橋を渡った先にも、あるいは渡る手前も、かつては多くの炭住があった。


●関連項目
我路と、中路プラットトラス
三菱美唄2号(4110同型機)のブレーキロッド












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初めてバイクで関門海峡をバイクで渡ったのは1997年だったか。そのときは、関門道を九州から入り、めかりPAに銀マット+シュラフで寝て翌朝下関で降りたと思う。1区間なのに8~9時間もかかっているので、当然、係員に聞かれたけれど、「めかりで寝てました」と答えて、すんなりOK。そういう見た目だしね。

 
その後のバイクツーリング等では、基本的に福岡エリアには立ち入らないので(どうしても中南部になる)、人道トンネルを行く機会はなかった。2019年9月に下関を回ったときは、市内のクルマの多さと暑さに辟易して、とっとと東に向かってしまった。

 
2023年5月、ようやく機会が訪れたので、文字から入った。門司港レトロ観光線に乗って終点下車、そこから徒歩。門司港レトロ観光線は、そのとき使っていた「旅名人の九州満喫きっぷ」でも乗れるのに、ちゃんと説明を読んでいなかったので、別にきっぷを買ってしまった。

 
入口からエレベーターで降りると、広い空間の向こうに、国鉄の駅の地下通路みたいな雰囲気のトンネルがある。これが人道トンネルだ。

 
これを見に来た。

 
海底部分は780mで突っ込み勾配。そこそこの数の人が歩いている。多すぎず、少なすぎず。立ち止まって写真を撮っている人も多い。関門トンネルを通れない原付は、ここを手押しで進むしかない。

 
県界部分。

 
逆から。

 
 
下関側。「みもすそ川町」と平仮名が正式。漢字では「御裳川」と書く。本当は「御裳濯川」のようになると思うのだが、脱落したのか。

 
エレベーターで地上へ。この料金箱が、原付用だ。

 
下関側。

 
出た目の前が、みもすそ川公園。いろいろなものがあり、観光客も多い。目の前には関門橋。







 
門司港にある、歩行者用の跳開橋(可動橋)。写真左に見えるのは関門橋。手前(南)が親橋、対岸(北)が子橋で、持ち上がる仕組みは異なる。

 
親橋の桁は片持ちで、主塔から吊っている。主塔の根本をピボットとして、ケーブルを巻くと主塔ごと傾き、桁を持ち上げる。門司港のクルーズ船が出入りすることがあるようだが、この橋がなくても船溜まりを数百メートルほど迂回すればいいだけなので、役割としては観光用、現地のシンボルだろう。

 
写真左が、陸地側(ウインチ側)で、2本のケーブルは主塔内の動滑車に繋がる。右が桁側で、こちらのケーブルは桁を吊っている。

対岸に渡る。
 
こちらは子橋(降りている状態)の可動部分。桁下を油圧で押し上げる。

 
青焼きにも見える色使いの説明板があるが、けっこう褪せている。
 
山口市北部の国道315号を走っていると、塊感のあるプレートガーダーがあった。まるで鉄道の上路橋のように桁高さがあり、相当な強度がありそうだ。


近付くと道幅はなく、歩道橋。この幅だとますます鉄道用に見えるが、鉄道用の上路橋は内部に多くの対傾構(筋交い)が入っているので、これは違う。

 
この塊感。

 
対岸より。もっと長いスパンでもっと華奢な歩道橋は無数にありそう。道路橋の転用だろうか。

 
対岸より。





小豆島で、墓地にピラミッド状に墓石が積まれている場面をいくつか見た。墓地だしそこを見学するのはなあ…と思いつつ通り過ぎていたが、特異な光景なので、バイクを停めて近付くと、それは、無縁となった墓を会葬した供養塔だった。

 
海に面している墓地。それぞれの区画はけっこうな広さがあるが、それには理由があった。

 
 
 
「墓地完成記念碑 一九七八年」という碑がある。その裏の碑文を書く。漢文調なので一部の漢字表記やカナカナやは平仮名に直し、分かち書きにする。

昭和五十一年一月部落総会において中島墓地を埋立整地区画して各個人に譲渡すことを議決 九月墓地委員会を結成 十月中島地区狭小のため新発意造成を計画 十一月西地区一括工費千五百十一万余円で坂本工業と請負契約定結 翌年一月着工 五月岡南地区完工 六月中島地区の工事に着手 あわせて無縁如来塔森重雄氏により着工 まず大松堀取基礎工築十一米四面塔台七月完成 八月部落総動員奉仕の旧塔解体石塔洗浄塔上配列 九月完了 墓地埋立区画焼香場完成 十一月一日無縁如来塔の開眼供養墓地落成の式典を誉行 以上のごとく着手以来一年余総工費地代共三千三百九十七万円余 思うになせばなるの譬えのごとく部落民渾然一体となり完遂を得たものである 工事監督松本杢治氏 右墓地委員会(以下顧問・委員・部落委員・組長の氏名略)


「埋立」と書かれているが、1974~1978年の空中写真を見ても周辺は埋め立て・拡張されたようには見えない。砂浜に面していたが、護岸工事をして防波堤を築いた際に整地した、という意味だろうか。いずれにしろ、墓地を整理し、新たな世代に受け渡そうということだろう。

墓地北西に、校舎に見える建物があるが、建て替え前の神社か。ここ伊喜末地区の小学校は1913年(大正2年)には四海小学校(しかい)に統合され、2015年には小豆島本島部の小学校すべてが統合された土庄小学校1校となっている。もっとも、人口の多い町でもあるので、児童数は470名余の規模だ。

四海小学校は、いまなお閉校当時のWEBサイトが存在している。それを見ると児童数は54。いずれ役所の誰かが気づいて削除されてしまうだろう。

 
無縁如来塔に話を戻す。墓石がほぼ同じ大きさ、同じ形をしているのが興味深い。私の生家の墓がある寺は、まったくバラバラだ。

この塔は設置から40年を経ているにもかかわらず、塔を構成する墓石はいずれもきれいだ。いまもなお定期的に清掃されているのだろう。比較的新しめだと思われる墓石もある。この事業は昭和50年代前半のものだが、それから40年以上が経ったいま、同様のことはできるだろうか。相当に困難なのではないか。とすると、こうした供養塔が作られた年代というのは極めて短い期間だということになる。

●関連項目
花見潟墓地 砂浜にある国内最大級の自然発生墓地






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