※以下の写真はすべて2010年10月撮影。このときも丸田祥三さんと『廃道 棄てられし道』の撮影。詳細は後述。 いまの橋は「新上江橋」となり、片側2車線の快適な道路である。ネズミ取りもあるようだ。最初は上流側に架設(上の写真の「奥」、いまの東行き線)、それと旧橋がどちらも使われていた。私はたぶんどちらも走ったことがあると思うが、記憶はない。 その後、現在の西行き線(上の写真の「手前」)が架設され、西大宮バイパスが完成してからのことははっきりと憶えている。下流側にあった上江橋を解体する作業が、徐々に進行していくのを、クルマの窓から眺めていた。上江橋は、その時に走っていた新道(新上江橋)と比べ、ものすごく幅の狭い、コンクリートの欄干を持っていた(と記憶する)。いつしか桁はすべて撤去され、アプローチの築堤だけになっていた。
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1974年撮影の航空写真を見てみよう。 新上江橋の西行き線が建設中で、撤去された上江橋だけが現役の時代だ。入間川(左)と荒川(右)が合流する地点だということがよくわかる。 三つの橋が共存している写真は、大宮国道工事事務所のサイトにある。→こちら。 上江橋が有料だった時代の料金所の写真、さいたま市西区のサイトにある。→こちら。 上江橋が撤去中の画像はこちら。 上江橋の由来の碑というものがあるそうだ。この碑は未見。詳細はブログ:川越雑記帳2(川越見て歩き) 市街地に架かるモニュメント的な橋だったわけではなく、意匠を凝らした橋だったわけでもない。それでも、荒川と入間川をパスするという大きな役割をもっていたためか、それなりに人々の記憶に残っている、幸せな橋である。
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丸田祥三さんの『廃道 棄てられし道』にはここで撮られた作品が収録されているが、2012年、改めて撮影された作品が朝日新聞の連載『幻風景』に掲載された。その原版を丸田さんが公開されている。下記ツイートのリンクをクリックし、拡大してご覧いただきたい。
この橋と定義森林鉄道については山さ行がねがおよびそこにリンクがある先行レポートに詳しいので、省略する。 この橋梁は、大倉沢に入る釣り人の間では知られていたようだ。しかし、撤去されたとの噂もある。この写真を撮影したのは2009年の5月だが、再訪したい。
三弦橋である水管橋を撮影していて、ふと見ると羽越本線の橋梁がこんなだった。
山倉川橋りょう 設計:東日本旅客鉄道株式会社上信越工事事務所 施工:鹿島建設株式会社 設計荷重:EA-17 基礎:場所打ち杭φ=1.2M L=31.5M 6本 基礎根入:けた座面から35.71M 着手:2002年3月 しゅん工:2003年10月 新潟工事区長:鈴木博人 鹿島建設株式会社現場代理人:大久保秀樹 橋りょう名:山倉川橋りょう 位置:神山 月岡 15K528M59 支間:51M80 塗装年月:2003年4月 塗装回数:6回塗 塗装種別及び塗料名:下塗 亜鉛・アルミニウム擬合金噴射 中・上塗 ポリウレタン樹脂塗料 塗料メーカ:下。中・上塗 大日本塗料株式会社 施工者:鹿島建設株式会社 株式会社横河ブリッジ
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この橋を、Yahoo!地図で見ると奇妙なことに気づく。 衛星画像だけを見ててもわかるまい。これを「地図」に切り替えてみてほしい。 あれ? 川の流路も道路の位置も違う! 少し前の地図ではこのように「山倉川」などというものが描かれていない(いま、橋の下を通っているのは(新)「折井川」である。そこで少し検索してみると、この山倉川は、1998年の豪雨の対策として掘られたもので、あわせて鉄道や道路が付け替えられたということがわかる。 ここにまとめなおしてもしょうがないので、公式な文書のリンクで張ることにする。 ・鹿島「鋼・コンクリート複合トラス橋を 鉄道橋に初適用」 ・JR東日本「羽越線神山・月岡間山倉川B改築他工事の施工について」(PDF) 興味深いのは、踏切を一つ、新設できているこだ。名義的には「移設」にしたのだろうか。 なお、サイト「廃線跡探訪」によれば、この橋の建設にともない、路線の切り替え作業もあったそうだ。
3月、木造駅舎で有名な信濃川田駅を訪問した。周辺を歩いていたら、草むらにこんなものがあった。
この桁。まったくの憶測だけれど、村山橋架け替えに関係しないだろうか。このピカピカ具合がそう思わせる。しかし、ちょっと検索したくらいでは、この桁の現役の姿を見つけることはできなかった。
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おまけ。 渋温泉近くの消火栓。 |
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