11月20日(土曜)深夜、大井ジャンクションの桁架設工事を見てきた。場所はここ。
より大きな地図で 大井ジャンクション を表示 工事概要は東京都のサイトから画像を転載する。 10月と11月に、のべ4回に分けて施工する3回目。場所は下記の右側。 ![]() 長スパンの桁を、徐々に接合してゆく。完全につながるまでは、片持ちの状態で止めておくのだ。 首都高の該当区間の通行止めは22時から翌朝6時。そう思って22時前に現地に行ったのだが、肩すかしを食った。先客の方がひとりいるだけ。クレーンはエンジンすらかけていない。ただし、時折、すぐ近くの現場事務所にクルマや人の出入りがある。 22時をだいぶ過ぎても始まらないので、事務所の駐車場で番をしていた人に聞いてみた。すると「通行止めは23時から。作業はやるよ」とのこと。wktkして待つ。 それにしても作業員さん、その断面に「座ってる」ようにも見えるときがある。 位置決めの後、分厚い金属板を叩くような音など、金属質の音が響く。 こうなるまで約1時間。早い。もちろん、実際にはこの後、接合の作業でかなり時間をとられるのだと思うが、派手な部分はここまでだ。 この桁架設、地元の人は知っているのか、けっこうな数の人が徒歩や自転車で現れた。また、暴走族風の若者も多数、見学していた。先輩が働いていたりするのだろうか? 今週末、27日深夜もある。行けるかどうかは微妙。。。 PR 11月20日(土曜)早朝、東京港臨海大橋改め東京ゲートブリッジのアプローチ桁の架設が行われるということで、現地に行ってきた。 若洲キャンプ場は午前6時にならないとクルマが入れない、とされているが、この日は5時20分頃にゲートが開いた。入ってみると、深田サルベージ建設の3000t級起重機船「富士」が、桁をぶら下げて待機していた。前夜からこの状態だったとのこと。エンジン音だけがゴロゴロと鳴り響いている。 船舶のことはまったく知らないので迂闊なことを書くとお叱りを受けそうだが、海中に向けて索がいくつも張られている。自らが移動する際には、海底に固定されたこの索を巻き上げて前身するのかな…。なお、こちらに起重機船と桁を搭載した台船を移動する際には曳航船が20隻必要だと書いてある。 また、桁の四隅からそれぞれワイヤーが垂らされている。末端が吊り輪のように見える。 なかなか作業が始まらないのでしばらくボケッとしていた。徐々に明るくなってきたのでまた撮影しようと思って望遠レンズを覗いたら、桁が動いている! いつの間に巻き上げ、しかも移動開始したんだ? てっきり、エンジン音が大きくなるとかの変化の兆しがあると思ってた! ちょっと引いて見る。 裏側というか防波堤側。 美しい。 謎の上物で載せかけているほう。 トラス側。 ここまでの作業時間はおそらく2時間以上。膠着状態が続いているように見えるが、当然、現場ではいろいろ調整しているのだろう。ここまで見学して撤退した。
Einshaltさんとgolgodenkaさんのやりとりの中で、記憶しておかねばならないことがあったのでメモ。
ことの起こりはgolgodenkaさんの下記記事。11月12日。 旧士幌線(幌加~十勝三股)のトラス橋 ?!ハウトラスかと思ったけれど、垂直材が見えない。そんなのあるのかな、と思いながら手元の乏しい文献には掲載なし。そのままにしていたところ、11月20日になって、Einshaltさんが素晴らしい写真を発見。こちら。 「Copy & paste this HTML into your webpage」に出てくるタグに、すでに文字化けした文字が含まれているために画像を引用できないのだが、見れば見るほど奇っ怪な形をしている。「ポストトラス」みたいに、特殊な例としてwikipediaにあったような気がしたので、見てみると、なるほどあるじゃないの。アラントラス。って、この項目を抜本的に修正したのは自分なのだが、書いた本人が憶えていないというオチ。まあ、実例を知らない形式だしな。外国の小説に出てくるちょい役のキャラの名前を覚えてないのといっしょだ。 冒頭の橋の写真は、昭和10年には完成している(注)。写真から見るに、橋脚はPC、欄干は木製に見える。トラスそのものは、木製のようでもあり、鉄製のようでもある。ただ、鉄橋ぽさがないのだ。シルエットだけ見ると、いま現在のトラス橋ならありうるかもしれないのだが、端柱と上弦の結合部、つまり台形の上底の両端が、端柱に対して出っ張っている。また、各部材が、角材のように見える。 (注)
十勝支庁のサイト内にある「上士幌町史 観光・交通」では、この橋について「'23年(大正12年)土木現業所によって、ポニートラスト式の新橋45メートルが完成した。当時としては最高の技術を投入したもので、安全橋と呼ばれ、また川上橋と改称、つぎにコンクリート橋脚になり泉翠橋と命名された。」と書いている。橋脚をコンクリート製に交換することができたのかどうか不明。 また、開発局による糠平国道紹介資料によると、この場所に架かる橋は下記のようになる。 1918年(大正7年)安全橋 1923年(大正12年)川上橋 1928年(昭和3年)泉翠橋(初代)ポーニトラス(筆者注:ポニートラスの誤記) これらのことから、十勝支庁の記事は複数の情報が混同されている可能性がある。おそらく1918年の安全橋、1923年の川上橋とも木橋で、1928年に初めてコンクリート橋脚を備えた木橋になったのではないかと考えている。これらの情報はすべてEinshaltさんに依った。 Einshaltさんが発見した写真では、細い垂直材が見えるので、それは鉄製(鋼製?)だろう。 とにかく、私としては「木造じゃないの?」と思っている。ハウトラスを元にしているように見えるし(ハウトラスとは木橋に適した構造。木材は引張よりも圧縮に強いので、長さが大きくなる斜材に圧縮力がかかるようになっている)。上士幌町という土地柄から、もともと音更川上流は木材資源開発のために切り拓かれた土地でもあるし、ここに木橋がかかっていても、なんの不自然さもない。そういうことで、「木造じゃないの?」と思っている。 以下、関連備忘録。 パーシー・アランpercy allanのこと(1) http://en.wikipedia.org/wiki/Percy_Allan パーシー・アランpercy allanのこと(2) http://adbonline.anu.edu.au/biogs/A070039b.htm ごく簡単に書くと、1861-1930、豪州人、土木技術者。祖父は総督代理(? deputy commissary general)だというので当時の超エリートだ。旋回橋もやってたとある。 パーシー・アランpercy allanのこと(3) http://en.structurae.de/persons/data/index.cfm?id=d002304 資料(3)には図面もあり、そこに「典型的なアラントラス。豪州に適した、豪州産木材を斜材に使用し、垂直材(ロッド)は鉄(のちに鋼鉄)とした形式」というようなコメントが付されている。 == 以下余興。 アラン・トラスの例 ・Hampden Bridge(1895) http://en.wikipedia.org/wiki/Hampden_Bridge_%28Wagga_Wagga%29 ・Tharwa_Bridge(1895) http://en.wikipedia.org/wiki/Tharwa_Bridge ・Victoria Bridge(1897) http://www.flickr.com/photos/29029178@N03/3406011139 パーシー・アランの業績。 ・Pyrmont_Bridge(1902)。トラス橋の旋回橋 http://en.wikipedia.org/wiki/Pyrmont_Bridge ・Glebe_island_bridge(1903)。同。この状態で固定らしい。 http://en.wikipedia.org/wiki/File:Glebe_island_bridge.JPG
昨日のエントリ芝浦橋・芝浦併用橋は長くなったので割愛したことなど。これらの橋の関連情報について。主として銘板について。
より大きな地図で 芝浦橋 を表示 ●芝浦橋(道路橋)の他径間 その短い桁の西側の面に、銘板がある。 1970年6月
東京都港区建造 鋼示(1984)一等橋 製作 横河橋梁製作所 千葉工場 材質 ●●●●●、SS41 支承には「横長の楕円形、中に縦三本線」の陽刻があるのだが、メーカーはわからない。いや、社団法人日本支承協会のサイトも見たのだが、わからなかった。毒を食らわば皿まで。支承もコレクションしとかないといけないかもしれない。 ●西側のビームとその橋脚 基礎工 場所打コンクリート杭φ150cm L=9.5m 5本
基礎根入 けた座面から22.3m
着手 昭和44年6月24日 しゅん工 昭和46年8月9日(注:1971年) そうか、橋脚にも活荷重があるのか。あたりまえといえばあたりまえだが、上に乗る桁の重量(RC製のほうが鋼製よりも重いはず)にも左右されるし、いまある桁の重量を前提に設計されているのだろうか。また、表記が、塗装標記や橋梁制作会社の表記と異なる点も興味深い。この当時から「橋りょう」だったのだな。 いや、それよりもN-18という標記に注目。N荷重だ。新幹線貨物を想定した、車体長13.5mの活荷重だ。ということは、1970年代まで、新幹線貨物は、土木構造物において、一応は想定されていたのだ。状況証拠から、思わぬことを発見してしまったのでフォントを赤くしてしまった。KS-18標記は在来線の活荷重であるから、この橋脚は、新幹線(貨物)と在来線のふたつを想定していることがわかる。 ●東側のビーム 橋りょう名 高浜第二西運河橋りょう
位置 元汐留-東京貨物(タ)3K847M84 支間 28M500 塗装年月 1991年6月 塗装回数 3回塗り 塗装種別及塗料名 下塗 シアナミド鉛さび止めペイント 中上塗 長油性フタル酸樹脂塗料 塗料メーカ 日本ペイント株式会社 施工者 建設塗装工業株式会社 1991年の時点では、汐留駅はなくなっていたがこの路線は生きていた。それが標記に現れ「元汐留」となっているのだろうか。 銘板。 SS46 宮地鉄工所 東京工場 おお、宮地! なぜここで宮地なんだ。周辺の桁は全部横河橋梁なのに、なぜこのビームだけ異なるんだ。 そして、KS-18。新幹線の桁は、上記の通り、別に設けた橋脚に乗っかっているから考慮する必要がない、というわけだ。 以上、周辺情報。
ふと書名を目にした『横河橋梁八十年史』をポチリ。中身もなにもわからずに、送料込み4000えん以上の買い物をしてしまった。二居渓谷の境橋のことが載ってないかな…というのが動機で、もし想定外のものなら売ればいいや、と思って注文した。あとで古書店サイトで検索したら、もっと安いのがあって残念だったのは、まあ仕方がない。それが今日届いた。
タイトルロゴの「板」のデザインを見て思った。これって…? 装丁に関心を持つ人なら知らない人はないと思う。また、氏の名前を知らなくとも、角川文庫の本体表紙(カバーではない)や、講談社現代新書の以前のカバー、あるいは『噂の真相』の表紙、といえば、ああ、あのテイストか、とおわかりいただけるに違いない。太い明朝体と太いゴシック体を組み合わせ、図版をシンボリックに使用する。そのデザインのフォロワーは今も跡を絶たない大御所だ。 もちろん中身も氏のテイストが炸裂している。 しかし、ページを繰ると、ちょっとこれはものすごいものを手に入れたぞ…と感じた。目次をちょっとだけ。 記事の例も挙げる。下記は また、こんなのもある。 本書にはこれらについて、非常に多くの記述がある。最大支間が32メートルであること、軍用桁は最初、石川島造船所がリベット構造のものを開発したが重かったので横河橋梁が溶接桁で製作して採用されたこと、これが日本最古の溶接橋といえること、戦争中(ママ)の横河橋梁で最も多くつくられ活躍したのはJKTであろうと推測されていること…。 また、戦時中、中国側は鉄道橋梁を多く爆破して退去した。それを修復するために鉄道省の技術者を中心に現地に派遣されたのだが、そのうちの一人が羽幌線の天塩川橋梁を架け、新幹線に反対し、のちに国鉄総裁になった藤井松太郎であり、さらにそのボスが足立貞嘉で、淮河の修復がその代表的なものであった。その作業員として大量に横河橋梁の社員が派遣されていたというのだ。作業内容、手がけた橋梁などが記載されている。 さりげなく、こんなことが書いてあった。 軽構桁道路橋(KKD)…陸軍一般車両用。KKTに準じ部材の一部を転換して編成する。 重構桁道路橋(JKD)…陸軍重車両用。JKTに準じ部材の一部を転換して編成する。 軍用桁に、道路用があった! これ以上は、私も興奮して読めない。 全692ページ。古書店で安価に買えるのは数冊のみ。早い者勝ちです。 |
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