コニカミノルタプラザで開催されている写真展『軍艦島全景』に行ってきた。
大きなパネルが3点。上記リンク先の案内図にある「Large Panel」の3点である。黒沢氏、大西氏、西田氏それぞれの作品で、順に、幾何的な模様の繰り返しである鉄筋コンクリートの建物、かつて人が住んでいた部屋と当時は時代の最先端だったものが取り残されてタイムカプセル化した部屋、廃墟の中、陽光が当たる部分に新たに芽生え、天に向かって伸びゆく生命。おそらく、各氏の軍艦島における原点といおうか、各氏が軍艦島に託して何を見ているのかの表現というような意味合いでそれらは選ばれたに違いない。 digital poto flameもよかった。明るい液晶で、適度な大きさでスライドショーとなる写真は、明るかった。人が住んでいた当時のものを繰り返すものもあった。 私が目を留めたのは、人が住んでいた時代に撮られた写真と同じ場所の現在を撮った、定点観測的な写真展示である。かつてそこに響いていた人声や足音は二度と戻ってこない、直接的にはその儚さを、間接的には時間軸が持つダイナミズムを見る。三才ブックス刊『軍艦島全景』でも一部その試みがあるが、ここではほぼ同じ場所で、40年(推測)を隔てて撮影された写真を並べることで、よりそのダイナミズムが際立つ。なぜか思い出すのは、手塚治虫の『火の鳥 未来編』である。 大きなパネルそれぞれに、三氏の軍艦島や廃墟への思いが書いてある。もちろん、三才ブックスの本にも同様のものがあるのだが、私は黒沢氏のそれに感じるものがある。引用する。 これを読んだとき、涙が浮かんできた。私が廃道について感じている気持ちそのままである。鉄道も廃線も道路構造物も鉄道構造物もちろん好きなのではあるが、人の情念が入るのは廃道だと思っている。それも、集落を結ぶなど、生活に直結する廃道であって、高速道路やバイパスの廃道ではない。いわゆる「廃モノ」のなかでも、こうした廃道こそが、名もない人々の生活に直結しているのであり、意識することなく使われ、やがて忘れられていく。一方、鉄道は請願はするけれども結局は「会社」あるいは公共企業体が運営するものである。廃墟は、複数の人ではなく特定の個人の思いだけが宿る。 黒沢氏と同じ方向性のことを、西田氏も書いておられる。
この写真展を見た人が、たとえ故郷が東京都心部であっても、故郷を振り返り、ああ、実は自分は故郷のことをまったくわかっていなかったのだ、もうちょっとよく知ってみようか、と思うようになればいいと思う。 帰りがけ、写真好きらしいオバチャンが「廃墟も素敵よね。ぴかぴかのビルと違ってさ」と連れ合いに話していた。まあそういう見方もあるのだろうけれども、そうではなく、この写真展に込められた思いをもっと感じ取ってくれよ、と少し寂しい気持ちになって会場を後にした。 これだけの撮影をするのに、どれだけの回数軍艦島に渡ったのか、ちょっと想像がつかない。その労力と、三才ブックスの写真集『軍艦島全景』を考えたとき、写真展が無料で、写真集は2415円であることは、驚異的な安さだと思う。この写真集は、その2倍、3倍の価格でもおかしくないできばえだと思う。それは、ひとえにオープロジェクトの三氏の気持ちと、力と、三才ブックスの理解によるものだと思う。自分もこうした本を世に送り出すことができればと思っている。 PR |
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