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IMG_3893_R.JPG
関西本線は、開通時からの施設が多数残されていることで知られている。そのなかのひとつ、木津駅の東西自由通路に行ってきた。たまたまそこらへんに行っていたときに、小倉沙耶さんに「ここにこんなものがあるよ」と教えていただいたので立ち寄ったが、なかなかに感銘を受けた。写真は西口、Yahoo!地図の航空写真では、橋上駅舎化工事中のため、この写真のようにはなっていない。

木津駅において、線路は築堤上にある。写真ではわかりづらいが、バスからバス1台ちょっと分左側に、ぽっかり口を開けている部分がある。これが、東西自由通路である。もともとは、駅改札内の通路として利用されていたものを、橋上駅舎化するにあたって東西自由通路にして(もちろん橋上駅舎内を通り抜けることもできる)、保存したものである。

IMG_3885_R.JPG木津駅のレール面は地平ではなく築堤の上にある(水害対策らしい)ので、この通路はその築堤に穿たれている。レールの真下は煉瓦で組まれた隧道状になっており、それはたしか4線分(確証なし、違っているかも)、つまり煉瓦隧道が四つある。それぞれの間(写真では白い壁の部分)は別の方法で埋められている。この白い部分の真上はホームだろうし、塗り込められた壁の向こうには、ホームへの階段があったのだろう。

IMG_3891_R.JPG駅舎が新しいこと、この通路も清潔に保たれていることもあり、「古い隧道的な通路」であるわりに、不潔感はまったくない。路床がきれいなことや、異臭がしないこともそういう印象に結びつくのだろう。

なお、上から2枚目に見るとおり、断面は欠円アーチだ。

先に「以前は改札内の通路だった」と書いたが、こちらの『大仏鉄道研究会』内の「JR木津駅橋上駅舎化工事の経緯」ページに当時の写真があった。「大仏鉄道」って最近なにかで聞いたな、と思ったら、昨日kinias・近畿産業考古学会で見学会に行っていたやつだった。まったくの偶然で大仏鉄道の名がここでリンクした。

これがいつできたのかはわからない。朝日新聞によると「大正時代ではないか」とある。『とれいん工房の汽車旅12ヶ月』(JTBキャンブックス『鉄道未成線をあるく』の著者、森口誠之氏のサイト)は、資料は見つからなかったとしながらも根拠を推測しながら明治時代と推測している。木津駅の開業は1896年(明治29年)。そのころ、わざわざ金のかかる地下通路などを設けたのかどうか、気になるところではある。

もののついでに、昭和49年の航空写真へのリンクを貼り付けておく。→こちら
左上(北西)、国道24号泉大橋のカンチレバーっぷりについては後日。

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これを廃道にカテゴリするのはいささか抵抗もあるが、
関心を持った根っ子は同じである。

bd59d6ed.jpg

























先に断っておくが、上野英信について、私はなにも知らない。知らなかった。

先月、まったく偶然に立ち寄った早稲田の古書店で見つけたのが
『地の底の笑い話』である。
まだまだ学術書ばかりといっていい時代の岩波新書なのに、地の底。
背取りというほどのことはないが、背表紙を見て炭鉱の民俗譚であろうことは想像がついた。
400えん。
買った当日、まだ読むべき本が山積していたので、
その日のうちに会社の同僚に貸してしまった。

別の日、図書館で三木健『西表炭鉱写真集』をかり出してきた。
パラパラと興の赴くままに眺める。
ふと巻末近くに、上記の写真と記事が目に止まった。
一通り読んだはずであるが、今から思えば「読んだ」とは言えまい。


後日、『地の底の笑い話』を読了した。
著者が誰なのかさえ意識しなかった。

今日に至り、改めて『西表炭鉱写真集』をすべて読み直した。
再び上記の写真のページを読んだ。
写真は見てはいるが、まだ目に入っていないに等しい。
本文にはこうあった。
「そんな村田さんが帰郷を果たし得たのは、まさに天の配剤というほかない。
一九六八年、東京の出版社の編集者が、たまたま村田さんの境遇を知り、」
お節介なのがいるんだなあ。
「それを筑豊の作家」
そういえば『地の底の・・・』の著者も筑豊だったな。
「上野英信さんに通報したことから、」
・・・!

あわてて写真を見る。
「筑豊の上野英信さん(右)一家に迎えられホッとする村田さん(1970年5月)」
というキャプションがあった。

先に、パラパラと本を繰ってこの写真を見たときは、
親戚だろうか、なぜこの人の元に身を寄せたのだろうか、
などと思っていた。
ところが、これがこの上野英信だったとは。

『西表炭鉱写真集』最終章、「掘り起こされる歴史」では、
「西表炭鉱史を語る集い」に出席する上野氏の写真が掲載され、
『常紋トンネル』の著者、小池喜孝氏が掲載され、
ガチャガチャとパズルのピースが組み上がってくる。
そうか、こういうつながりだったのか。


そして、上野英信は山口の阿知須の出だという(『地の底の・・・』に記載はない)。
阿知須といえば、小学校のころ、もっとも仲のよかった友人の一人の
ご両親の生家があるところだ。

まったくの偶然で手に取った2冊の本がつながった。
そして小学校の頃の思い出もつながった。
こうなると、きっと、その友人と上野家もなにかつながりがあるのではないかと思えてくる。
だが、それを調べる術はない。
県道124号を南下する。
この先は行き止まりのはずだ。
しかし、かなり道が改良されている上、
御巣鷹山への案内がしきりに出ている。

とはいえ、慰霊碑のために道が整備されたわけではない。
ダム工事のためである。
最新の『ツーリングマップル』では、県道124号は
浜平より南側は新たなトンネルで一気に駆け抜け、
従来の道は消され、代わりにダムが描いてある。

とりあえず、行ってみると、浜平温泉の旧道に、それはあった。
位置は、下仁田森林軌道(1)の地図参照。
20090702shimonita.jpg







先のは北側からで、素掘りの坑門口があまりに巨大であった。
大型トラックすら通れそうであった。
それはすなわち、崩落が続いているということであろう。

これは南側から見ている。
写真の右に見えるのが現道である。
ここまで、車道からすぐ。

内部はこう。
20090702shimonita2.jpg








もうひとつ、廃隧道があった。
20090702shimonita3.jpg






こちらは、隧道手前左上の岩を見ただけで近寄りたくなくなった。


この先、ダム手前で通行止めとなっていた。
クルマから自転車を降ろし、行ってみるとまだあった。
20090702shimonita4.jpg







一般車通行止めとはいえ、ダム関係車両は通行するだろうから
現役である。
現役ゆえに、安全対策も施されているし、なによりきれいである。

この隧道をくぐり、左に曲がってまっすぐ行ったところで終了。
旧版地形図では、もうひとつ隧道があるはずだが、
それとおぼしき位置はダムの堰堤であった。

ここはこれで引き上げた。

が。
帰宅後、地図を見直すと、新たなトンネルを使えば、
下仁田森林軌道の最奥部には行けたようだ。
行ったところで同様の隧道があるかどうか、というところだが、
行っておかなかったのは悔やまれる。
またの機会に。
20090710shimonita.jpg






塩之澤隧道。
県道45号の旧道である。
現在は、新たな湯の沢トンネルが大胆にバイパスしている。



いまは車道となっているこの隧道も、もともとは下仁田森林軌道のものである。
ただし、扁額に昭和32年3月竣工とあり、比較的新しい隧道である。
翼壁等の造作を見ても、それがよくわかる。

先にも書いたが、基本的にはこの軌道を転用してとなっている。
私の手元にある旧版地形図は、
・昭和27年応急修正(昭和30年6月発行)←米軍撮影の航空写真をもとに修正
・昭和37年修正(昭和41年3月発行)←修正測量を施したもの
である。
塩之沢の軌道が掲載されているのは、昭和27年応急修正版だけである。
航空写真を見て書き入れたもののため、それなりのいい加減さも含んだものだったのであろう。


県道を南下し、一度国道299号に出て、今度は県道124号を南下する。
これも下仁田森林軌道の跡である。
(1)で掲載した写真は、この南部のものである。


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