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大糸線第一姫川橋梁

橋梁(アメリカン・ブリッジ)

 
大糸線に残る、アメリカン・ブリッジ製の200フィートプラットトラス。なかなか訪ねる機会がなかったが、ようやく現地に行けた。鉄道写真の定番ポイントでもあり、鉄道ファンにも馴染みのある橋梁。奥に見える朱色のトラスドランガー橋は、通橋(かよいはし)。

 
姫川第二ダムの前に架けられており、上2点は姫川の左岸からダムに向かって撮ったもの。点検通路があるため、華奢で美しい姿の全貌は味わえない。

 
こんどは右岸、通橋側から。こちらなら全貌が拝めるかと思いきや、点検通路はこちらにもあるし、右岸側の橋脚は見えないし…。

しかし、手前に旧橋の橋脚がある。このトラスは1954年の架橋だが、旧橋はどんなものだったのだろうか。橋脚の形からして、トラス橋だと思うのだが。

 
このように見える場所まで行ける。銘板はついているようだが、そこまではちょっと近づけない。ここに来たとたん、多くはない電車が警笛を鳴らしつつ、トラスに入っていった。




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第一九頭竜川橋梁(福井県/越美北線)

第一九頭竜川橋梁(福井県/越美北線)

橋梁(アメリカン・ブリッジ)

20120617_013.JPG久しぶりに、アメリカン・ブリッジのピン結合200フィートプラットトラス。福井県の越美北線の柿ヶ島駅のすぐそばにある。暴れ川である九頭竜川を200フィートのプラットトラス1連と短いプレートガーダー計7連、橋長214mでまたいでいるのだが、こうして見ると、上流なのに川幅がこれだけ広いというのが実感できる。これは、南側の国道158号から見下ろしている。

場所はここ。



20120617_000.JPG反対側から見る。写真左が柿ヶ島駅。

20120617_010.JPG下唯野側の鈑桁。22.3mの6連。

20120617_011.JPG拡大すると「第一九頭竜川」と書いてあるのだが、文字の高さが揃っていない。「第一/頭」「九/竜川」でそれぞれ段差がある。

20120617_012.JPG美しい、9パネルのプラットトラス。

20120617_001.JPG真横。斜材を叩いてゴイーン…ってしてみたい。

20120617_009.JPG下弦。このアイバーの並びが美しい。

20120617_008.JPG柿ヶ島駅からはこの近さ。

20120617_004.JPGここに銘板があるが…

20120617_003.jpg上が、アメリカン・ブリッジの銘板、左右が欠けており、「(AMERI)CAN B(RIDGE)」「(CO)MPAN(Y)」「(N)EW YO(RK)」「(US)A 19(11)」。

その下には国鉄の銘板。
「日本国有鉄道/1962-3/TTR462-1/**** **** /株式会社宮地鉄工所/********」

1962年?

越美北線が、この区間を含む勝原まで開通したのは1960年(昭和35年)12月15日。しかし、ここには1962年の銘板がある、ということは、架け替えられているということだ。

冒頭で、トラスで流路を、鈑桁で溢流部を…というようなことを書いたが、開通時には9連の鈑桁で構成されていた。それが、開通翌年である1961年9月14日から16日にかけて日本各地に甚大な被害をもたらした第二室戸台風による増水で橋脚3基が倒壊、鈑桁も流失した。台風による福井県の被害は、流失・家屋損壊125戸、農地及び宅地の浸水面積3264Ha。この台風により、全国で194名が亡くなった。

復旧工事には、東海道本線の大井川橋梁からの桁を転用した。それが、このプラットトラスだ。宮地鉄工所で改造し、流路部分に架けた。柿ヶ島寄りの1スパンは、コンクリート桁に置き換えた。そのため、9スパンだったものが8スパンになった。

…これは帰宅後にわかったもので、もし事前にわかっていたら、鈑桁やコンクリート桁の銘板類も撮ってきていたのだが…。

ディテール。
20120617_006.JPG20120617_005.JPG20120617_007.JPGさて、どこが改造された部分か。

20120617_002.JPG自分の過去の記事(カテゴリー「アメリカン・ブリッジ」をご覧ください)と見比べても、ちょっとよくわからない。不勉強ですみません。


<参考>
歴史的鋼橋集覧
水害と治水事業の沿革(PDF)

<関連項目>
[西勝原第三発電所の水圧管路と九頭竜川第二橋梁]
[無表情な戦後型のポニープラットトラス]
[小舟渡橋 その1 (福井県)]
[小舟渡橋 その2 (福井県)]

富士川橋梁(クーパートラス)の撤去映像

富士川橋梁(クーパートラス)の撤去映像

橋梁(アメリカン・ブリッジ)

@level_7gさんから教えていただいたこの動画。ひたすらすごい。



東海道本線富士川橋梁として架かっていた、クーパートラス。1908年アメリカン・ブリッジ製で、9連が下り線として使用されていたものだ。それが、使用停止され、2連が転用され、残りはそのまま放置されていた。その撤去の模様である。トラス桁が、橋脚に置いてあるだけ…というのがよくわかろうというものだ。

1975年の航空写真を示す。
20110908map.jpg国土画像情報より転載・トリミング)

3本の橋梁が並んでいる。上から、現在の上り線、現在の下り線、上記動画の廃橋だ。この時点では、まだ全9連が残っている。



富士川橋梁の経緯はこうだ。

・初代桁(単線→上り線)…200フィートダブルワーレントラス、9連
 (1888年9月完成・1889年2月1日開業~1915年)
・2代目桁(下り線)…上記動画の橋梁。200フィートプラットトラス、9連
 (1908年製作、1910年3月6日下り線として開通<=複線化完成>、1956年使用停止。
  1982年8月2日に2連が流失)
・3代目桁(上り線→下り線)…初代桁の架け替え。200フィートプラットトラス、9連、現在の下り線
 (1915年開通。架け替え時、単線運転していたのかどうかは不明)
・4代目桁(上り線)…現在の上り線、200フィート中路鈑桁(3径間連続が3連?)
 (1955年供用開始)

富士川の氾濫の被害にはたびたび遭っており、3台目桁は、1917年の洪水で第8連と第9連の間の橋脚が損傷したため、橋脚を別の場所に作り直し、そのために第8連が150フィート、第9連が250フィートの曲弦トラスになっている。さらに、第4連と第5連は1982年に2台目桁とともに流失している。そのときの写真がある。
20110908-1.jpg富士市のサイトより転載)

この部分は、その後、平行弦ワーレントラスが架けられている。


●参考文献
・『歴史的橋梁を訪ねて 富士川橋梁』(塚本雅啓、鉄道ジャーナル2009年8月号)
・『明治時代に製作されたトラス橋の歴史と現状(第1報)200フィートダブルワーレントラスを中心として』(小西純一、西野保行、淵上龍雄)
・『明治時代に製作されたトラス橋の歴史と現状(第5報)米国系トラス桁その2』(小西純一、西野保行、淵上龍雄)

渡良瀬川橋梁(東武佐野線)その1

渡良瀬川橋梁(東武佐野線)その1

橋梁(アメリカン・ブリッジ)



20110601_000.jpg久しぶりにアメリカン・ブリッジ製200フィートピントラスを見に行った。東武佐野線の渡良瀬川橋梁。全18連、うち第15・16連が、クーパートラスである。他の桁はすべて東京石川島製で、スパン等は不明である。写真は上流(西側)から。

20110601_001.JPG美しい。9径間の、典型的なクーパートラス。極めて華奢に見える。それがいい。

20110601_002.JPG大きさ比較用。電車が1両20m、よってちょうど4両編成が1スパンにおさまる。

反対側から。
20110601_004.JPG上流川は点検通路があるので、下流川から見たほうがスッキリしている。

20110601_009.JPG上流側から。


アイバーのディテールなど。

20110601_010.JPG20110601_011.JPG20110601_012.JPG20110601_013.JPG
20110601_014.JPG桁の裏。

20110601_015.JPG橋脚。

桁の幅と橋脚については次回。


東海道本線上神崎川橋梁(下り内外線)

東海道本線上神崎川橋梁(下り内外線)

橋梁(アメリカン・ブリッジ)

20110208-02.JPG


20110208-01.JPG先に紹介した東海道本線上淀川橋梁と、新大阪駅を中心に点対称にした位置にあるのがこの上神崎川橋梁である。

ここはJRの4複線。上の航空写真の右端から、
1)この上神崎橋梁(下り内外線/単線ポニーワーレントラスの並列/1912年●月●日開通)
 #内外線=東海道本線の電車線・列車線の下り。
2)上り内外線(複線ワーレントラス/1930年10月15日開通)
3)梅田貨物線(上下/複線ワーレントラス/1930年10月15日開通)
4)北方貨物線(上下/単線プレートガーダーの並列)。
うち、2)3)は同型である。

この上神崎川橋梁、上写真の右側(北側/右岸側)2連が1912年アメリカン・ブリッジ製である。左側(南側/左岸側)の2連は、のちに増設された桁で、1923年汽車製造会社製である。一見、4連とも同じに見えるがディテールが異なる。

また、橋台・橋脚も見ていただきたいのだが、橋台は煉瓦製、橋脚は鉄筋コンクリート製である。これについては後述する。



20110208-03.jpg手前(画像左)が汽車製、奥(画像右)がアメリカン・ブリッジ製。端柱と斜材が大きく違っている。

汽車線は、端柱も、引張力を負担する斜材(逆ハの字型、端部のみ)はアングル材+板材。アメリカン・ブリッジ製は、どちらもアングル材+レーシングである。汽車製のは、他の斜材は肉抜きの意味でアングル材を梯状につないでいる。

裏側に潜ってみる。

20110208-04.JPG外側線。下弦材の格点に、ガッチリと横桁が接続されている。その横桁の間を、縦桁がつないでいる。

橋脚はコンクリート製。

20110208-06.JPG内側線。外側線と変わらない。

20110208-05.JPGなぜか、並列する外側線・内側線それぞれのトラス桁の間に、レールが渡されている。なんのためかはわからないが、踏み板があるのかもしれない。

振り返って橋台。

20110208-09.JPG外側線の橋台。

20110208-08.JPG内側線の橋台。

見比べると、支承が異なる。外側線は、橋台側が固定で橋脚川がローラー式。内側線は逆で、橋台側がローラー式で橋脚川が固定。前述の、桁裏の写真も合わせてみると、それがわかる。

桁落下防止用の部材は外側線と内側線で高さが異なるが、これは単に「皿」型の上面の部材が干渉しないように少しずらしてあるだけではないか。

橋脚側には落下防止の部材はない。

橋台を斜めから。
20110208-07.JPG
橋台はイギリス積み。

視線を桁に戻す。見上げてみると……
20110208-10.JPG要所要所に補修の跡がある。ボルトがある部分は確実に後年の補修だ。


さて、ここから
吹田~新大阪間の経路変更は1912年か1913年か
で触れた、ルート変更の話になる。

上神崎川に架かる橋について、『本邦鉄道橋ノ沿革ニ就テ』(久保田敬一)はこのように書いている。
明治六年十二月、大阪・京都間起工せられ、同九年九月五日竣工運輸を開始せり(略)上十三川、上神崎川、茨木川、太田川、桂川等(略)孰れも錬鉄製ワーレン構桁(=ワーレントラス桁)径間百フィートのものを架せり。(句読点追加、原文カタカナのため書き換え)
ここに書かれている上神崎川橋梁のスペックはこうだ。

・1876年(明治9)年開通、1913年(大正2年)撤去
・100フィート単線ポニーワーレントラス
・下り13連

いまは4連しかないのだから、100フィート13連というのはおかしい。これは、ここでいう上神崎川橋梁は、現在の同名橋梁とは別の位置にあったためである。即ち、ここである。


いま阪急千里線が神崎川を渡るこの場所が、かつては官設鉄道東海道線のルートだった。上淀川橋梁の記事で触れたルート変更に際し、いったんこのルートは廃止され、それが阪急によって復活を遂げて今に至っている。

撤去された13連はどうなったかというと、兵庫県の有馬線(現在の福知山線)などに転用された。そしてさらに一部は群馬県の長野原線に転用され、それらは1960年までには撤去された。

『明治時代に製作された鉄道トラス橋の歴史と現状(第3報)』(小西淳一・西野保行・淵上龍雄)によれば、上神崎川には1899年(明治32年)に上り線として2連が開通したとある。鋼製らしい。まだルート変更されていないのになぜ2連なのか。調べを進めたいと思う。


<参考文献>
『本邦鉄道橋ノ沿革ニ就テ』(久保田敬一)
『明治時代に製作された鉄道トラス橋の歴史と現状(第3報)』(小西淳一・西野保行・淵上龍雄)
『地形図でたどる鉄道史 西日本編』(今尾恵介)
サイト『十三のいま昔を歩こう』内『官営鉄道と阪急千里線




村田川橋梁(京葉臨海鉄道)アメリカン・ブリッジ

村田川橋梁(京葉臨海鉄道)アメリカン・ブリッジ

橋梁(アメリカン・ブリッジ)

20101201-06.JPG都心からもっとも手軽に行ける、アメリカン・ブリッジ製200フィート下路ピントラスが、この村田川橋梁ではないか。

歴史的鋼橋集覧のページはこちら


場所はここ。



ここは川沿いに歩くことができるので(釣りをしている人がいるくらい)、至近距離で眺めることができる。さわることもできる。一見華奢なアイバー(下弦を構成する、◎==◎型の部材)が実は分厚い鋼鉄であるのを確認できる。

さてと。
20101201-01.JPG道路が平行しているので、好きなように撮れる。だが、道路から見て西側にあるため、午後になると逆光になる。

上の写真は道路から撮ったもので、画面奥が蘇我側、左が市原側。蘇我側に踏切があるので、列車が近づくとすぐわかる。また、どこで入換をしているのか、ホイッスルもよく聞こえる。

この村田川橋梁は、典型的なアメリカン・ブリッジ製の200フィートプラットトラス。9パネルのうち中央3パネルの上弦が下弦と平行になっている。縦桁(枕木が乗る、長手方向の部材)が目立つが、いままで見てきた同型のトラスよりも目立つ感じがするのはなぜだろう。普通は見上げるのでアイバーに隠れて目立たなかったり、点検用の通路があるために目立たなかったところ、ここでは見下ろすので目立ってしまう…というところだろうか。

比較1><比較2

20101201-02.JPG南側の支承と端部。八幡運河橋梁でも書いたとおり、元々は東海道本線の大井川橋梁上り線として1958年頃まで使われいたトラス桁を転用し、1963年にこの地で開通させたものである。よって、桁そのものの作りと橋台がマッチしていない。

端梁から端柱に延びる部材や、ピンに記したマーキングが気になる。ピンは塗装で塗り固められている。

20101201-10.JPGさらに寄る。枕木の下部が縦桁にあわせて切り取られているのがわかる。逆凹型。橋台のレール受け部も凹型になっている。

20101201-09.JPGそのまま端柱を見上げると、「ょ」のあたりに不自然にザラついた部分がある。ボルトの位置からしても、以前はここに銘板があったのだろう。対岸にも銘板はないが、どこへ行ったのやら。

ん? その銘板を留めていたボルト下部の左右にあるはずのリベットが、ボルトになってる?

20101201-05.JPG目を降ろして端梁をふたたび。画像右下、縦桁下部のアングル材が、ほとんどボルト留めに交換されている。

20101201-04.JPG真横から見るとこんな感じ。どうせなら全部交換すればいいじゃん…と思うが、リベットを撤去する作業がかなり大変だからか。

20101201-03.JPGピン結合部を見る。まずは第1パネルと第2パネルの間。下弦となるアイバーだけしかない部分だ。横桁がピンを避けている部分のカーブが美しい。

20101201-08.JPG斜材がある部分はこうだ。1組の下弦材のアイバーの内側に、斜材が入る形になっている。ここで下弦だけの部分を見返すと、斜材が入るスペースにはスペーサーがかましてある。

20101201-13.JPG横から見るとこう。ピンにはマーキングがある。

20101201-07.JPG裏側に潜ってみる。こうしてみると、ピントラスの主役は断面方向の横桁であり、縦桁は横桁に接続されるサブキャラだというのがよくわかる。

20101201-12.JPG西側から全体を。

20101201-11.JPG塗装標記。


日暮れが心配だというのに30分もいてしまった。ピントラス万歳。


南海本線紀ノ川橋梁

南海本線紀ノ川橋梁

橋梁(アメリカン・ブリッジ)

20101118-02.JPG南海の紀ノ川橋梁はふたつある。ひとつはここ、紀ノ川河口にかかる南海本線の橋、もうひとつはもっと上流、橋本付近で高野線が渡る橋である。今回は河口側の橋について書く。


上の写真は左岸(南側)から。向かって左が上り線、右が下り線。簡単に書くとこうだ。

1903年(明治36年)、単線で開通。現在の上り線。ピン結合のプラットトラス。
1922年(大正12年)、複線化。現在の下り線を架設。ガセット結合のワーレントラス。

目的は上り線のピントラス見学だったのだが、上り線は見えづらく、さらにピン結合部分は川の上。近づいて見ることができないので、永居のしようがなかった。間近で見てハァハァしたいのに。

20101118-06.JPG少し離れると全体を見ることができるのだが、せっかくのトラスに木がかかってしまう。本当は河川敷に下りたいのだが、私有地のようになっており(実際はこうした高水敷は私有できないと思う)、さらに「中の人」らしき人がうろうろしていたため、そこに入るわけにはいかなかった。

パッと見、相当長い橋に見える。河口の幅が広いため、なんと22連。対岸側(右岸側、天王寺側)が第1連で、第1~16連と20~22連は径間(歴史的鋼橋集覧による)22.15mの鈑桁、第17~19連が支間(図面による)62.382m(203フィート9インチ)のプラットトラスとなっている。歴史的鋼橋集覧には、トラスについて「1899年A&Pロバーツ設計、1902年アメリカン・ブリッジ製造となっている。一見、トラスは設計と製造の会社が異なっているように見える。しかし、再三書いてきたように、A&Pロバーツは1900年にアメリカン・ブリッジが併合したので、実質は同じ会社である。鈑桁については、現地の桁に銘板はないし、歴史的鋼橋集覧にも記載がない。どこが製造したのだろう?

20101118-04.JPG背後の下り線のせいで、美しいシルエットがいまいち感じ取れない。

この10パネルの203フィートトラスは、アメリカン・ブリッジが大量に製造した単線型200フィートトラス、いわゆるクーパートラスとは異なるシルエットをしている。クーパートラスとは、セオドア・クーパーが設計した日本国鉄向けの標準設計トラスである。200フィート単線下路トラス橋の場合、9パネルで、中央3パネルの上弦が水平となる。対してこの紀ノ川橋梁の設計はA&Pロバーツ。10パネルで、上弦は曲線(格点で折れる)を描いている。また、ピン結合ゆえの下弦のアイバーは、クーパートラスでは下弦すべてがアイバーだが、このトラスは中央6パネル分しかない。

なぜ、クーパートラスではなく、わざわざA&Pロバーツ設計のものを採用したのかはまったくわからない。クーパーが日本国鉄の求めに応じて200フィート単線下路トラスを設計したのは1898年10月。この紀ノ川橋梁のトラスの設計は1899年。同じ「200フィートクラスの単線下路トラス」(支間で1フィートしか違わない)なのだから、すでにある設計をそのまま流用すればいいではないか。いや、正確には既にある「紀和鉄道紀ノ川橋梁(現・JR和歌山線、1930年撤去)」の図面を流用したのだが、そちらがなぜクーパートラスを使用しなかったのか。A&Pロバーツも、アメリカン・ブリッジも、通常のクーパートラスを多数製造している。だからこそ不可解だ。

20101118-03.JPGこうしてアイバーを見ると、多少の歪みがあるのがとても華奢で美しい。下弦が、板状の2枚のアイバーが連続しておらず、形鋼だったりしたら、こういう美しさは感じられないと思う。

20101118-05.JPG橋門構。踏切より。


次に下り線を見る。こちらも踏切より。下り線は8パネルのワーレントラス。ガセット結合だ。

まずは橋門構。
20101118-07.jpgトラスの高さは上り線と同じだが、開口部の高さはこちらのほうが大きい。冒頭の写真で見比べると、こちらのほうが1.5倍くらいありそうだ。ここまで開口部を大きくできるのは、構造がしっかりしているからか。

20101118-01.JPG上流側(左岸、南)から見るとこんな感じ。垂直材が入っていますが、全然萌えない。なぜだ。

この下り線は、歴史的鋼橋集覧によるとやはり22連で、第1~16連と20~22連が73フィート(22.25m)鈑桁、17~19連が62.382m(204フィート8インチ)のトラス桁となっている。どちらも、先に架けられていた上り線のものと微妙に寸法が異なっている。もしかすると、径間と支間が入り交じっているのかもしれない。こちらは、プレートガーダーもインチ表記で残っているのが興味深い。

この紀ノ川橋梁と同じ形の10パネルのピントラスは、ここに書いた例が史上のすべてである。和歌山線に1連、南海に3連。それしかない。和歌山線の1連は、のちに米原駅の跨線道路橋に転用され、1980年まで使われていた。

1975年の航空写真で見てみると、米原駅北東にある、これだろうか。
ckk-75-9_c13_3.jpg国土画像情報から切り出し)


話を戻して、南海本線紀ノ川橋梁の、ピントラスである上り線は、製造から100年を超えた。老朽化を理由に架け替えの話もあったが、結局は補修でいくことになった。そのあたりの経緯はこちら

なお、今回のポストにはwikipedia引き写しに見える部分が多々あるように感じる方もおられるだろうが、ご安心あれ、経緯を引っ張ってきたり元の文章を書いたのは私である。



参考文献
明治時代に製作された鉄道トラス橋の歴史と現状(第4報)米国系トラスその1(小西純一・西野保行・淵上龍雄)
明治時代に製作された鉄道トラス橋の歴史と現状(第5報)米国系トラス桁・その2(小西純一・西野保行・淵上龍雄)


米坂線第四荒川橋梁(三代目/アメリカン・ブリッジ)

米坂線第四荒川橋梁(三代目/アメリカン・ブリッジ)

橋梁(アメリカン・ブリッジ)

IMG_0395_R.JPG


米坂線は1926年(大正15年)から1936年(昭和11年)にかけて開通した。この時期には既に橋梁は国産化されている。それなのに、この地に1910年代初頭を最後に輸入されなくなったアメリカン・ブリッジ製の200フィートクーパートラスが架設されている。それは、この地に架けられていた橋桁が水害で被災したためだ。かといって、流失した橋桁が初代かといえばそうではなく、初代の橋桁は1940年に雪崩で流失しているので、このクーパートラスは三代目ということになる。なんだかややこしいが、順を追って書こう。

初代の橋桁(開通時~1940年3月5日)

初代の橋梁がどういった形式だったかはわからないが、水量の豊かな荒川を横切るのだから、現在とスパン割は変わらない200フィートだったのではないかと推測する。1940年3月5日、雪崩が初代橋桁を押し流し、そこにさしかかった列車が荒川に転落するという事故が起きた。橋桁は4~5年の命だった。事故の内容はwikipediaにある。現地には慰霊碑があり、私が訪ねたときでも、まだ添えられて日が経っていない花があった。ご遺族だろうか、保線関係者だろうか。

二代目の橋桁(1940年~1967年8月28~29日頃)

一昨日のエントリにも書いたが、1967年8月28日から翌日にかけての豪雨が「羽越水害」を招いた。羽越水害については小国町のサイトに詳細があるのでそちらを参照していただきたいのだが、このときに二代目の橋桁が流失してしまった。流出したあと、下記の写真のような状態になった。
(小国町のサイト「壊滅した米坂線」より転載)

残された橋脚の位置からして、二代目橋桁は上路トラスで、左手の隧道につながる部分にはプレートガーダーかなにかが架かっていたことがわかる。しかも、現在はトラス橋が第2連だが、この当時は第3連だった可能性もある。あるいは上路ゲルバートラスだったか、などとも考えたが、流失した初代の桁を復旧するという急を要する時に、専用設計のようにゲルバートラスなど架けるとは考えづらいな。ということで上路トラスではないかと想像する。

興味深いのは、隧道坑門の形状だ。これは、後述のスパン割から、隧道坑門ではなく、それをそのまま延長した落石・雪崩防止のヴォールトであろう。そのヴォールト内には地盤があるわけではなく、プレートガーダー橋がある。同じような例は、関西本線第四大和川橋梁(大阪府)の東端部でも見られる。

三代目の橋桁(1968年7月~現在)

さて、橋桁が流失したからといって、さっと別の橋桁を作れるわけではない。他の例でいうと、他の場所に架けようとしていた橋桁を転用したり、橋梁の架け替えで不要となった橋桁を転用したりするものがあった。ここ米坂線には、東海道本線大井川橋梁としてかつて使われていた橋桁を、宮地鉄工所で改造して転用することにした。改造内容は不明であるが、図面番号は「TTR462-2」である。

転用元について、かつて書いたことがある。こちらをご覧いただきたい。
→アメリカン・ブリッジの記憶(大井川橋梁上り線の怪)


要するに、廃止したまま放置してあったトラス橋の転用先が見つかったのである。架設中の写真が残っている。
(小国町のサイト「復旧から復興へ」より転載)

隧道前に新しい橋脚を設置している。流失を免れた橋脚はあるが、既に足場扱いだ。帰宅してからこの写真を見たので、現地では、その存在を調べなかった。

IMG_0404_R.JPG
(塗装標記に誤記。「支間」が「文間」になっているような気がする。)

第四荒川橋梁は、冒頭の写真で奥(隧道側)から1、2…と連を数える。

・第1連 KS12 スパン12.9m
・第2連 KS14 冒頭のクーパートラス
・第3・4連 KS18 スパン22.3m
・第5連 KS18 スパン12.9m
・第6連 KS18 スパン4.19m
・第7連 KS12 スパン6.70m

ということは、第1・7連はオリジナル、第3~6連は、KS18ということは架け替え済み。第2連は上述のとおりだ。

現在の米坂線第四荒川橋梁は、三世代の桁が同居した橋であった。

アメリカン・ブリッジ探訪/中央本線立場川橋梁

アメリカン・ブリッジ探訪/中央本線立場川橋梁

橋梁(アメリカン・ブリッジ)



18きっぷで出かけた際、ちょっと迷ったがやっぱり立ち寄った。有名な、旧立場川橋梁だ。JRから富士見町に払い下げられた後、結局保存する費用など捻出できず、そのまま放置されていまに至る……というのを何かで読んだ。出典を思い出せない話は、眉唾かもしれない。

下り列車の右側の車窓に、このように見える。
20090118-1.jpg立場川橋梁の向こうに見えるのは中央道、その向こうは八ヶ岳エコーラインの立沢大橋である。上記地図を「写真」にすると、後者はまだ建設中の姿である。


さて、今回は小さなデジイチと安ヅームだけを持って行った。腰痛がひどかったので、荷物を富士見の駅のコインロッカーに収め、カメラだけを持って現地へ行った。そのルートは次のようなものであった。途中、道があるだろう・・・と思って突っ込んだところで道がなくてあきらめたりして余計な動きをしているが、それでも富士見の駅から現地まで15分くらいだったろうか。
20100118-map.jpg


























そして、やっと視界に入ったのがこれだ。
20090118-2.jpgもちろん手前の大きな橋が新線。下り基準で微妙に左カーブしている。架線柱は通常50m間隔、ということはスパンはそれ以上なので60~70m程度か。その向こうに見える立場川橋梁は200フィート、62mである。

新線の「下」に見えているのは八ヶ岳である。左の白いのは阿弥陀岳、その右の黒い三角が西岳である。
20100118yatsu.png

















近づく。
20090118-3.jpg思っていたよりも錆びている。周辺の状況もよくない=じっくり見づらい。

手前側の橋脚にすら近づけず、手前に木が繁茂して視界を妨げる。

カメラが35mm換算28~70mm相当なので、あまり寄れない。それでもピンをのぞき込む。
20090118-6.jpg



















20090118-5.jpg





















この場所で、ふと「上」を見ると、若い男性が携帯で写真を撮っていた。こんなところまできて携帯???とも思ったが、話してみたら相当に若かったので、それもそうなのだろう。ここまで、旧隧道を経由してきたという。私なぞは、ハナから立ち入り禁止だろうと思い込んでいるので道路を歩いてきたわけだが、そのルートのほうが近くて早いのは確実だ。

ひとしきり話をした。ピントラスに興味をもってくれれば幸い。ごく一般的な廃線趣味というか「行ってきたよ」に止まらず、突っ込んでいってほしい。


20090118-7.jpg裏側=北側から見る。こちら側は雪が残り、しかも凍結している。

このあと、次の電車に間に合うべく急ぎ足で戻ったが、ここから10分ほどで駅に着いた。

18きっぷ旅行のアクセントにこうした「歩き」を加える楽しみを知った。それが、前述の万古川橋梁につながってゆく。

(現地地図、展望図はDAN杉本氏作成のカシミール3Dを使用した)

アメリカン・ブリッジの記憶/東武伊勢崎線利根川橋梁

アメリカン・ブリッジの記憶/東武伊勢崎線利根川橋梁

橋梁(アメリカン・ブリッジ)


1906年製の利根川橋梁。
この区間の開通は1907年8月27日。
複線化は、ずっと下って1992年9月21日である。
上記衛星写真に写っているのは、左が旧来の橋梁、右が増設部分である。

ここに、1974年度撮影の航空写真を持ってきてみる。
20091119ckt-74-18_c66_22.jpg(国土画像情報ckt-74-18_c66_22.jpgをトリミング)

なんと、複線化の18年も前に既に橋梁の工事は進められていた!

・・・などということはもちろんなく、右側の桁が
表題のアメリカン・ブリッジ製のプラットトラスの生き残りである。

開通時、ここには8連のプラットトラスが架けられた。
その後、1961年2月11日に200ft10連の現在線(画面左)が開通し、休橋はお役ご免となった。

いちいち見せないが、昭和55年度撮影のものにも、
昭和61年度撮影のものにもまだ写っている。
平成2年度撮影のものにて、ようやく姿を消している(橋の前後で複線化工事中)。



一番上の衛星写真でわかるとおり、現在線は連続トラスである。
本流部分でスパンを長くしており、常磐線利根川橋梁の緩行線複線ワーレンように、
スパンの変化する部分で橋高が拡大している。

撤去された橋の銘板等は、どうするのだろうか。
ただの鉄屑となり、再利用されるのだろうか。


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