横浜のみなとみらい21に保存されている「港一号橋梁」「港二号橋梁」「港三号橋梁」のうち、「港三号橋梁」が英国系ポニーワーレントラスである。これらの橋がかかるルートは、下記の地図から分かるとおり、実際に貨物線が通っていたルートである。かつて、そのまま赤煉瓦倉庫の前に通じていたこのルートは、いま、「汽車道」という名称の遊歩道というか公園というか、開放的な空間になっている。線路も改めて(だったと思う)埋め込まれている。
しかし、実際にこの場所で鉄道橋として使われていたのは「港一号橋梁」「港二号橋梁」だけで、「港三号橋梁」は別の地から移設されたもの。そのため、埋め込まれている線路のルートに並行して架けられているのが、上記航空写真を拡大すればおわかりだろう。 港三号橋梁は、ここに据えられるまでに2ヶ所で使用された。 まず、北海道の夕張線夕張川橋梁(紅葉山=現・新夕張-楓間。なお、どちらも後年、移設されている)として1906年に架設され、それが1928年に横浜港の生糸検査所専用線の大岡川橋梁(現在、当時の航空写真が閲覧できないため、場所を示せず)に転用され、1970年にお役ご免になっていた。これを短縮の上、1997年に転用したものが、港三号橋梁である。実際には、この地に来てから、この橋梁を列車が渡ったことはない。 現在は7スパン63フィートだが、大岡川橋梁時代は100フィートであった。そして、大岡川橋梁は、この桁のほか、総武鉄道江戸川橋梁(1907年架設)の2連とあわせた3連であった。先から引用し続けている『明治時代に製作された鉄道用トラス橋の歴史と現状 第2報』(淵上龍雄、小西純一、西野保行)によれば、「1907年製作、製造はブライスウエイト・アンド・カークBraithwaite&Kirk)となっているが、これは総武鉄道の2連(1894年開通、1926年撤去)を指すので、歴史的鋼橋集覧の製造年と異なったり、製作者が書いてなかったりしても矛盾しない。 現在地に移設する際の図面はここにある。 さて、本題の横桁である。こうだ。 直線である。そして、端部にカバープレートがない。下弦材の各パネル間に2本載るというスタイルは変わりがない。 トラス桁の高さは、図面では上下現在中心間で2800mm。ということはもう少し大きいが、9フィート+4~5インチといったところか。また新たなパターンの登場である。歴史的鋼橋集覧には、設計は1874年頃イングランドによる、となっている。 ここは、ピンがよく見える。そして、奇麗に整備されている。 ついでに、レーシング部分を。ボルト止めではあるが、ネジ側はリベットのような丸鍋である。もちろん、プラスマイナスなぞ切っていない。こういうものは、どうやってねじ込むのだろうか。 さて、謎をまたひとつ増やしてしまった。本当にパターン化できない。 PR |
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