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富士総合火力演習、通称「総火演」に行ってきた。駐車場と桟敷の間には自衛隊用の道路があり、それを乗り越す橋を渡らねばならない。この橋は、毎年、演習として架けているようだ。

9パネルの上路プラットトラス、それも上弦に支承が来るタイプ。3パネルずつ分割できるようになっており、それぞれはピンで接合されている。


当日、@roadexplorerさんより下記の情報をいただいた。過去のものとは形態が異なるようだ。






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東海道本線の富士川橋梁を右岸下流から。こちらは3代目の桁、現在の下り線だ。1915年の架設当時は上り線として使用されていた。来年、100周年を迎える。富士川橋梁の経緯は【富士川橋梁(クーパートラス)の撤去映像】をご覧いただきたい。

東海道本線富士川橋梁下り線は、第1~3連と第6・7連が205フィートプラットトラス、第8連が少し短い約155フィート、そして第9連(上写真)が一番長い約256フィートとなっている。いずれも石川島または川崎造船製、国産のトラス橋初期の作ということになる。

第4・5連は1982年8月20日の台風10号で落橋したために架け替えられた平行弦のワーレントラスであるため、全体としてはかっこ悪い。

この橋の写真や解説は数多あるので、ここではあまり普通の人が採り上げない写真を掲載する。

プラットトラスの桁裏。

  その橋台(右岸)。

上り線。第8・9連は、下り線とはスパン割が異なる。おそらく他と同じく205フィート程度に揃えてある。

上り線の桁裏。

すでにそこにあった石積みの擁壁に、コンクリート製の橋台を貼り付けたように見える。

上り線の橋台には銘板がある。架線柱で隠されているのは非常に残念。
見える文字のみを描き起こす。

富士川橋梁
新橋工事々務所
白石基礎工事株式会社
K.S.18
天端から6.970M
昭和29年12月15日
昭和30年2月20日



 
富士川を渡る橋のうち、東海道本線と東名高速の間に位置するのがこの富士川橋。県道396号富士由比線だが、1993年3月末まではここが国道1号だった。この狭い対面通行が国道1号とは、21年前の話とはいえ驚く。

この富士川橋は左岸側(東側)に古いプラットトラスが4連、右岸側(西側)に新しいプラットトラスが2連という構成。まずは古い側から。

  1径間65.4mということで200フィートより少し長い。11パネルのプラットトラスで、曲弦の頂部の高さはざっと9mといったところだろうか。

 
  幅員は7.3m。人が歩くスペースはないが、この橋を夜、クルマで走っていたら、自転車が逆走してきて怖かった。

親柱は、左が「ふじかわばし」(濁る)、右が「昭和六十三年三月竣工」。左にオフセットされてある背の高いものはおそらく古い親柱で、「大正十三年初月竣工」とある。

  各連に銘板がきちんと残っている。

大正十二年
日本橋梁株式会社
製作
大阪

 桁と桁をピンがつないでいる?

  橋門構を内側から。

そして、第4連と第5連の間。このように第5連・6連のところで車線幅が変わっている。
2連だけ新しくした理由を車線増のためとしているサイトもあるが、未詳。老朽化とセットだとは推測する。

  さて、その新しい桁。こちらは古い桁から65年も経ている1988年竣工なのに、いまとなっては珍しい曲弦プラットトラスである。これは見た目を古い桁と揃えるためだろうか(見た目を揃えない橋がどれだけ径間的に酷いかは、東海道本線の富士川橋梁を見ればわかるだろう。もっともそちらはやむを得ぬ事情はあるのだが)。

構成は10パネル。今どき200フィートクラスならプレートガーダーとなるのだろうが、ここでは桁下空間がネックになったか。

  見るからに広いが、部材は細い。橋門構も単純。このあたりが、65年の差なのだと感じる。

  親柱は、左が「ふじかわばし」(濁る)、右が「昭和六十三年三月竣工」。

  トラス桁の銘板。

富士川橋
1988年3月
静岡県
道示(1980)一等橋
使用鋼材 SM53B、SM50YB・YA、SM41A、SS41
製作 日本橋梁株式会社

  桁部分にあった銘板。

富士川橋 富士川
橋長 2@66.42m
スパン割 2@65.4m
幅員 10.4m
橋格 10.4m
完工 1988
型式(上部工) 下路式トラス
  (下部工) 重力式橋台、壁式橋脚
主要資材 SS41、SM50Y
コンクリート 331.9m^3
鋼材 SD30 127.375t
   SS41 等 480.44t
塗装面積 6657.96m^2
下部工寸法 A2=4.24x17.03x10.87m
      P5=5.50x17.50x11.84m
請負(上部工)株式会社横河橋梁製作所 (下部工)住友建設株式会社


新しい桁は古い桁と同じく日本橋梁製だが、架設(横取り)は横河橋梁が請け負ったようだ。



歴史的鋼橋集覧はこちら。
http://library.jsce.or.jp/jscelib/committee/2003/bridge/T8-005.htm






長崎の出島にかかる橋。ピントラスである。出島は周囲を埋め立てられてあたかも陸続きのようになっているが、この橋は、本来の出島の東北端にかかっている。

元々は中島川の河口に架かっていた「新川口橋」であり、現在の地に架かっていた旧出島橋を架け替えるために移設したもの。桁製作は1890年、移設は1910年である。歴史的鋼橋集覧にも製作会社は書いていないが、時期的には国産ではなく、海外製であろう。…と思って現地の説明板を見たらアメリカ製とのこと。部材には陽刻があるが、読み取れない。一般供用されている道路橋としては日本最古とのことだ。


東南側、出島通りにある制限1トンの標識と出島橋。だが、たとえばハイエース等でさえ自重は1トンを超し、荷物を積めば2トンを超す。知らず知らずに通ってしまうクルマも相当多かろうと思う。厳しく制限するのであれば、それなりの対策…つまり歩道化するなどしなくてはならないのかもしれない。もっとも、個人的には本来の用途である車道としていつまでも現役であってほしい。


南側。橋門構上には扁額がある。


出嶋橋、とある。これは北側にもある。


圧縮力のかかる垂直材はアングルを組んだ角柱、引張力のかかる斜材は帯材。端部の垂直材と中央の2パネルの逆向きの斜材はターンバックル付きの鉄棒。


下弦とピン結合している部分。上は、斜材と垂直材。下は、端部の垂直材。


北側。


平行してプレートガーダーの水管橋がある。これを見ると、水管それ自身を部材として使う三弦橋の水管橋の合理性というか美しさを再認識させられる。


3径間+側径間の、美しい曲弦プラットトラス。写真は南詰めから。対岸が国道180号、その向こうにJR伯備線が見える。

左側の側径間は後年造られたもので、歴史的鋼橋集覧の図では、この左端の橋脚は橋台として描かれている。

その橋脚を拡大して見ると、本来橋台だったことがよくわかる。これは橋台の裏側。縦の4本の柱は後年の補強だろう。ここがかつては橋詰だったので、親柱もこの位置にある。


南詰の親柱は、左は撤去されている。右は「昭和十一年八月竣功」とある。側径間のガードレールにも律儀に銘板があり、左は「高梁川」、右は「玉川橋」とある。

プラットトラスは中央部のパネルは斜材がX字型となることが多い。中央部のパネルは最も大きな力がかかるので、引っ張りの力がかかる斜材(中央部に向かって\|/型)とは別の対角線(中央部に向かって/|\型)に斜材を入れることで剛性を上げている。

後者の部材は、メインたる前者の部材の部分で分断されているものが多いが、ここでは交差している。これは珍しいと思う。

国道側の端柱裏に塗装標記があった。こんな場所にある塗装標記を見るのは初めて。

国道側正面。親柱が残っている。左は「玉川橋」、右は「昭和十一年八月竣功」。向かって右が原形、左は上部が欠けている。

先に国道の対岸側の正面の写真を上げたが、右側にわずかに写っている親柱はやはり灯籠状の上部が欠損している。

向かって右の親柱をじっくり鑑賞してほしい。

対岸側、実は水門がある。写真中央、ゴミ捨て場箱の背後に見えるのがそれだ。この道路の高さより上まで土手が築かれているので、一部が切り開かれ、このようになっている。使う必要がないことが一番だ。



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