国道20号 新大月橋の旧道・旧旧道・大月橋の続き。
(関連事項) 国道20号の大月橋(上路カンチレバートラス) 中央本線 新桂川橋梁(1) 中央本線 新桂川橋梁(2) ついにというかさすがというか、ヨッキれんさんが資料を発見した。 郷土出版社は、鉄道の書籍でも非常に貴重な写真類を網羅した歴史書を多数刊行している。だが、高価なのでおいそれと買えない、買ったことがない出版社。そして「郡内」。いま改めて知ったのだが、「郡内」とは、行政区としての「郡」ではなく、「郡内地方」という山梨の都留地方の別名である。 この写真のキャプションにはこうある。 このキャプションから、このプラットトラスは昭和15年にはこの場所にあったことになる。また、「鉄道開通に伴って、道路の位置が変な場所に変更された」というニュアンスを読み取ることができる。大月駅の南側を通る国道20号が、この桂川の部分だけ線路の北側を通っている不自然さを語っているかのようだ。 この大月橋の向こうに見えるプラットトラスは中央本線の200フィートボルチモアトラスで、いまの磐越西線一ノ戸川橋梁と同じ形式である。 アプローチ部も石積だったことがわかる。下記写真の、矢印を向けた部分に違いない。 まとめよう。この場所に架かる道路橋である。斜体字は私の勝手な憶測である。「大月橋○」というのも私が仮に付したもの。 ・明治17年or18年(1884年or1885年)架設の大月橋は「はじめてセメントを使用した橋」。現・中央本線付近?…大月橋A ・明治35年(1902年)中央本線開通。桂川の前後は開鑿された。そのため国道を線路の北側に移設。本項の橋をかける。…大月橋B ・? その橋の位置に、カンチレバートラス(?)を架ける。丸田さん写真の橋脚。…大月橋C ・? その橋に隣接して、現・新大月橋の位置にカンチレバートラスを架ける。…大月橋…D ・昭和33年(1958年) 大月橋架設(現存する国道20号のカンチレバートラス)…大月橋E ・? 新大月橋架設…大月橋F 現存するのは大月橋DとF。本項で紹介したのは大月橋B。ということだ。もっときちんと裏付けしたいが、現在得ている資料から類推できるのは以上。 …と、眺めていたら、またまた…
横須賀水道道 相模川を渡る水道橋・上郷水管橋(1)の続き。
(1)で書き忘れた。(1)冒頭の 「この道路は水道用地のため、自転車及び関係車両を除き、車両の通行を禁止いたします。横須賀市 海老名市」 関係車両は通れる、ということは、クルマが通るのに強度に不安があるとか、そういうことではあるまいが、水道道路はたいてい「4t以上通行禁止」みたいになっている。 この、歩行者用道路部分の「低さ」を見ると、水道管がどの高さに埋まっているのかの参考になる。手前、2車線の車道はその上にかなり盛土してあり、水道管を破損するような薄い土被りではないことがわかる。 さて、対岸に渡る。対岸に渡るには、上流の新相模大橋経由で約4kmも迂回しなければならない。R246からこの水道道路に左折で入ると、明らかに通常の道路の線形とは異なる緩やかな左カーブがある。そのまま行くと…… この近くに、オフロードバイクが走れるコースがある。昔っから、このあたりでは練習していた人たちがいた。荒川や利根川、多摩川の河川敷は軒並み締め出しを食らったが、ここではまだ生きているし、。練習している人もいた。ぼくも何度も来ているが、そのころは橋など興味なかったので、この水道橋があったことすらまったく記憶にない。 この横須賀水道道、自転車で踏破されている方がたくさんいるようだ。いつか自分もたどってみたいと思う。 相模川にかかるプラットトラスがずっと気になっていた。国道246の新相模大橋から下流側に見える橋であり、道路橋ではなく水道橋である。水道橋がプラットトラスであるということは、ある程度古い時代に架設されたものだということになるが(鋼トラス橋としては、昭和に入ってからワーレントラス一本になる。すでに大正時代の関東大震災復興橋梁の時点で、プラットトラスはピン結合のための時代遅れの構造だという認識がエンジニアの間ではあったようだ)、人やクルマが渡る橋も満足になかった時代にこれだけの規模の水道橋を架ける意味とは? いろいろなことが気になってくる。 上記の航空写真を縮小して見ると、水道橋の前後もほとんど真っ直ぐな道がついている。ずっとずっと辿ることができるだろう。この道は、遡ればこの上郷水管橋の下流で相模川に合流する支流、中津川に寄り添い、愛川町の半原という地区に至る。下れば逸見浄水場に至る。 この横須賀水道橋は、横須賀の軍備拡張にともなって1912年(明治45年)から1921年(大正10年)にかけて建設されたもので、老朽化を以て2007年(平成19年)に取水を停止している。詳細は横須賀市のサイトにある。こんなサイトを作る横須賀市は素晴らしい。 ●水道のあゆみ(横須賀市) 「横須賀水道」は地形図にも掲載されており、20万分の1地勢図でも記載されるほどの格である。下記に2万5000分の1地形図を掲げる(DAN杉本氏制作のカシミール3Dを使用した)。 いつか、このルートをたどりたいなと思っているが、今回は上郷水管橋についてである。 まずは左岸(海老名市)側から。「上郷水管橋」の「上郷」とは海老名市の地名である。 真正面になんかいる……。 足下を見ると…… 裏側は それ意外にも文字が書かれているのかも知れないが、これ以外にも見たいくつかのものも埋まっており、確認していない。 さらに近づく。 横河橋梁製作所
東京工場製作 大正七年三月竣工 (右書き) 大正7年とは1918年。当初、大阪に工場を持っていた横河橋梁が東京工場を開設したのが1914年であるから、初期の製作である。私が見た少ない例で書けば、のちの銘板には「東京工場」という記載がない。『横河橋梁80年史』には、この上郷水管橋に関する記述はない。 「壮大な土木遺産 ―旧横須賀軍港水道 ~走水の水道~」には「長さが500mにもおよぶ」とあるので、10連で500mくらいになるのか。鉄道用橋梁ではフィートが基準だったので、スパン50mという橋梁は定型ではないが、この水道橋の正確な寸法が知りたい。 (続く) 先に書いた『本邦最古の鉄道用桁 浜中津橋(大阪府)』にも写っている、すぐ隣り(東側=上流側)にかかる三複線の橋梁である。とても撮りづらい。歴史的鋼橋として記載されているのは、ここに紹介する桁と堤防を挟んでつながる『新淀川橋梁』の下流側の2複線。ここに掲載するのは、かつて長柄運河だったところに架かる桁のみであり、おそらく『新淀川橋梁』ではない。正式名称は不明なので、『長柄運河の橋梁』とする。 元々、この下流側の2複線しかなかったのだが、上流側にさらに複線が開通したのが1959年(昭和34年)2月18日。これをもって、梅田~十三間が3複線となった。なお、地形図はその差異をなぞっていない。以下、便宜上、下流側から「下流桁」(トラス+鈑桁)、「中央桁」(トラス+鈑桁)、「上流桁」(鈑桁)と書く。 この3複線区間の歴史はいささか複雑である。私自身が阪急に詳しいわけでも基礎的知識があるわけでもないので、ボロがでないように書く。 ・1910年(明治43年)3月10日 箕面有馬電気軌道がこの区間を開通。 ・1926年(大正15年)7月5日 高架化(下流桁と中間桁使用開始) ・1959年(昭和34年)2月18日 3複線化(上流桁使用開始) 京阪神急行電鉄株式会社
活荷重 71.12t 電車荷重 支間 35.600M 重量 37.080T 汽車製造株式会社 昭和33年製作 「京阪神急行電鉄」と名乗っていたのは、1943年(昭和18年)10月1日 から1973(昭和48年)3月31日限り。 「汽車製造会社」が存在していたのは、1972年(昭和47年)まで。 もう一丁。下り線の西側、梅田方についているもの。 京阪電鉄 宇治川橋梁(京都府)の続き。 この橋梁は宇治川橋梁の兄弟で、基本的には同一仕様。両端が少し短い5パネルのプラットトラス、これはおそらく長さ25mほど。中間7連が6パネルのプラットトラス、これが宇治川橋梁と同じなら36mほどとなっている。文末資料によれば、径間は28.2mと37.8m。 京都方(右)の2連は、塗装工事中である。 6連のトラスを側面から。 宇治川橋梁と同じく、このトラスは「コリジョンストラット」が特徴的である。コリジョンストラットとは画像に赤矢印を引いた部材で、端柱(トラス両端の斜めの部材)の中間から下弦材の第1格点とを結ぶ部材。 このコリジョンストラットがあるのは、たしか英国系トラスだったと記憶する。1880年代の200フィートダブルワーレントラス(錬鉄)において、日本で建築師長であったポーナルの元で設計された桁にはこのコリジョンストラットがあった。しかし、それを英国在住の顧問技師、シャービントンがチェックしたところ、コリジョンストラットをやめ、垂直材を追加するなどした例がある。 また、1896年に開通した、やはりイギリスのハンディサイドで製作された日本鉄道の隅田川橋梁にも、コリジョンストラットがある。リベット結合の200フィート複線プラットトラスで、これはのちに川崎の江ヶ崎跨線橋に転用されている。現在は撤去されたが、写真は残っている。 ![]() コリジョンストラットは、意味からすると「対抗する支柱」のようなものになるのだろう。引張力がかかるらしいが、なくてもいいということは、ほとんど意味をなさないということか。計算する術もなく、ただスケルトンをなぞるがまま。 この木津川橋梁については、とくに短い桁だけでも塗装標記を探して撮るべきだった。失敗した。 (追記) この複線トラスになる以前、ここには別の9連(*)の複線トラスが架かっていた。径間28.2mと37.8mの2種類があり、車両大型化による耐荷力が不足するために架け替えられた。『鉄道ピクトリアル』1984年1月号に写真が掲載されている。 鉄道院設計桁を元にしているが、走行するのは電車のみのため、耐荷重を軽くし、「軽快」(後述資料)な姿をしていた。 (*)『明治時代に製作された鉄道トラス橋の歴史と現状(第6報)--国内設計桁--』(小西純一・西野保行・淵上龍雄)によれば、「木津川に7連、宇治川に9連」という旨の記載がある。しかし、現在は木津川に9連、宇治川に7連なので、これは誤記であろう。 |
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