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国道20号 新大月橋の旧道・旧旧道・大月橋の続き。
(関連事項)
国道20号の大月橋(上路カンチレバートラス)
中央本線 新桂川橋梁(1)
中央本線 新桂川橋梁(2)


ついにというかさすがというか、ヨッキれんさんが資料を発見した。
20110425-1.jpgその資料とは、郷土出版社の『目で見る郡内の100年』だ。

郷土出版社は、鉄道の書籍でも非常に貴重な写真類を網羅した歴史書を多数刊行している。だが、高価なのでおいそれと買えない、買ったことがない出版社。そして「郡内」。いま改めて知ったのだが、「郡内」とは、行政区としての「郡」ではなく、「郡内地方」という山梨の都留地方の別名である。

この写真のキャプションにはこうある。
大月橋と中央線鉄橋(大月市・昭和初期) 鉄道線路敷設のため右手は掘削され、そこを通っていた甲州街道は分断された。人が立っている道は新街道である。直角に曲がって橋になるため、昭和15年にはバスの転落事故が起きた。
このキャプションから、このプラットトラスは昭和15年にはこの場所にあったことになる。また、「鉄道開通に伴って、道路の位置が変な場所に変更された」というニュアンスを読み取ることができる。大月駅の南側を通る国道20号が、この桂川の部分だけ線路の北側を通っている不自然さを語っているかのようだ。


この大月橋の向こうに見えるプラットトラスは中央本線の200フィートボルチモアトラスで、いまの磐越西線一ノ戸川橋梁と同じ形式である。



アプローチ部も石積だったことがわかる。下記写真の、矢印を向けた部分に違いない。
20110425-04.JPG川底に残る丸いトウモロコシの断面みたいなものは、先の先の国道20号 新大月橋の旧道・旧旧道・大月橋では、丸田祥三さんの写真参照。そこに橋脚が立っていたものだ。そして、その橋脚は、今回ご紹介したプラットトラスの橋脚ではなさそうであることも、先の記事に書いている。

まとめよう。この場所に架かる道路橋である。斜体字は私の勝手な憶測である。「大月橋○」というのも私が仮に付したもの。

・明治17年or18年(1884年or1885年)架設の大月橋は「はじめてセメントを使用した橋」。現・中央本線付近?…大月橋A
・明治35年(1902年)中央本線開通。桂川の前後は開鑿された。そのため国道を線路の北側に移設。本項の橋をかける。…大月橋B
・? その橋の位置に、カンチレバートラス(?)を架ける。丸田さん写真の橋脚。…大月橋C
・? その橋に隣接して、現・新大月橋の位置にカンチレバートラスを架ける。…大月橋…D
・昭和33年(1958年) 大月橋架設(現存する国道20号のカンチレバートラス)…大月橋E
・? 新大月橋架設…大月橋F

現存するのは大月橋DとF。本項で紹介したのは大月橋B。ということだ。もっときちんと裏付けしたいが、現在得ている資料から類推できるのは以上。



…と、眺めていたら、またまた…
20110425-2.jpgこの赤く塗った部分にある鉄製橋脚は何? 少なくとも中央線の桁に関するものでも、写真の道路のものでもない。まったくわからない。


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横須賀水道道 相模川を渡る水道橋・上郷水管橋(1)の続き。

(1)で書き忘れた。(1)冒頭の
20110402-01.JPGここで振り返ると、こうなっている。
20110402-15.JPG怪しげな細い道が、JR相模線に向かっている。右側に立て看板がある。

「この道路は水道用地のため、自転車及び関係車両を除き、車両の通行を禁止いたします。横須賀市 海老名市」

関係車両は通れる、ということは、クルマが通るのに強度に不安があるとか、そういうことではあるまいが、水道道路はたいてい「4t以上通行禁止」みたいになっている。

この、歩行者用道路部分の「低さ」を見ると、水道管がどの高さに埋まっているのかの参考になる。手前、2車線の車道はその上にかなり盛土してあり、水道管を破損するような薄い土被りではないことがわかる。



さて、対岸に渡る。対岸に渡るには、上流の新相模大橋経由で約4kmも迂回しなければならない。R246からこの水道道路に左折で入ると、明らかに通常の道路の線形とは異なる緩やかな左カーブがある。そのまま行くと……

20110402-16.JPG左が厚木市環境センター、右がソファーのメーカー、セルタン。真正面にトラスが見える。

20110402-17.JPGよいしょ。

20110402-18.JPGよいしょ。柵には「厚木市」ではなく「横須賀市」の表記。横須賀市が厚木市の許可を得て占有してるのだろうか。

20110402-19.JPG柵の隙間から撮影。厚木側は周囲に樹木がないのですっきりしている。

20110402-20.JPG昨日アップしたものとは逆側、上流側。

20110402-21.JPG裏面。


この近くに、オフロードバイクが走れるコースがある。昔っから、このあたりでは練習していた人たちがいた。荒川や利根川、多摩川の河川敷は軒並み締め出しを食らったが、ここではまだ生きているし、。練習している人もいた。ぼくも何度も来ているが、そのころは橋など興味なかったので、この水道橋があったことすらまったく記憶にない。


この横須賀水道道、自転車で踏破されている方がたくさんいるようだ。いつか自分もたどってみたいと思う。


20110402-12.JPG
相模川にかかるプラットトラスがずっと気になっていた。国道246の新相模大橋から下流側に見える橋であり、道路橋ではなく水道橋である。水道橋がプラットトラスであるということは、ある程度古い時代に架設されたものだということになるが(鋼トラス橋としては、昭和に入ってからワーレントラス一本になる。すでに大正時代の関東大震災復興橋梁の時点で、プラットトラスはピン結合のための時代遅れの構造だという認識がエンジニアの間ではあったようだ)、人やクルマが渡る橋も満足になかった時代にこれだけの規模の水道橋を架ける意味とは? いろいろなことが気になってくる。

上記の航空写真を縮小して見ると、水道橋の前後もほとんど真っ直ぐな道がついている。ずっとずっと辿ることができるだろう。この道は、遡ればこの上郷水管橋の下流で相模川に合流する支流、中津川に寄り添い、愛川町の半原という地区に至る。下れば逸見浄水場に至る。

この横須賀水道橋は、横須賀の軍備拡張にともなって1912年(明治45年)から1921年(大正10年)にかけて建設されたもので、老朽化を以て2007年(平成19年)に取水を停止している。詳細は横須賀市のサイトにある。こんなサイトを作る横須賀市は素晴らしい。

水道のあゆみ(横須賀市)



「横須賀水道」は地形図にも掲載されており、20万分の1地勢図でも記載されるほどの格である。下記に2万5000分の1地形図を掲げる(DAN杉本氏制作のカシミール3Dを使用した)。
20110402-99.JPG道路に沿って水路の記号がある。もっとも、実際には道路の真下にあるので、この地図はいささか正確性に欠ける。

いつか、このルートをたどりたいなと思っているが、今回は上郷水管橋についてである。


まずは左岸(海老名市)側から。「上郷水管橋」の「上郷」とは海老名市の地名である。

20110402-01.JPG国道246号から海老名駅方面に入り、繁華街を過ぎていきなり畑になったころ、右にこんな道がある。この、入口の通せんぼ具合は水道道路の証しだ。


真正面になんかいる……。

20110402-02.JPGトラス橋が見える。立ち入り禁止くさいのも見える。

足下を見ると……
20110402-03.JPG「水道部」。

裏側は
20110402-04.JPG「横須賀」。

それ意外にも文字が書かれているのかも知れないが、これ以外にも見たいくつかのものも埋まっており、確認していない。

さらに近づく。
20110402-05.JPGなかなかの存在感。

20110402-06.JPG堤防に向かっては、このようなスロープがついている。

20110402-07.JPG当然の如く、柵で塞がれている。

20110402-08.JPG柵の間からレンズを入れて撮る。見たところ、通常の道路橋や鉄道橋と構造は変わりないようだ。

20110402-09.jpg右の端柱には銘板がある。
横河橋梁製作所
東京工場製作
大正七年三月竣工
(右書き)

大正7年とは1918年。当初、大阪に工場を持っていた横河橋梁が東京工場を開設したのが1914年であるから、初期の製作である。私が見た少ない例で書けば、のちの銘板には「東京工場」という記載がない。『横河橋梁80年史』には、この上郷水管橋に関する記述はない。

20110402-10.JPGこうしたディテールも、なにかの参考になるかもしれないのでアップしておく。上弦と橋門構・上横構の関係である。

20110402-11.JPG水管を見る。ボルトで結合された水管。どこかでパイ何mmか見た気がするのだが、思い出せない。

20110402-13.JPG真横から。

20110402-14.JPG河川敷より。全10連である。右端に見えているのは海老名側の最終連。

「壮大な土木遺産 ―旧横須賀軍港水道 ~走水の水道~」には「長さが500mにもおよぶ」とあるので、10連で500mくらいになるのか。鉄道用橋梁ではフィートが基準だったので、スパン50mという橋梁は定型ではないが、この水道橋の正確な寸法が知りたい。



(続く)




先に書いた『本邦最古の鉄道用桁 浜中津橋(大阪府)』にも写っている、すぐ隣り(東側=上流側)にかかる三複線の橋梁である。とても撮りづらい。歴史的鋼橋として記載されているのは、ここに紹介する桁と堤防を挟んでつながる『新淀川橋梁』の下流側の2複線。ここに掲載するのは、かつて長柄運河だったところに架かる桁のみであり、おそらく『新淀川橋梁』ではない。正式名称は不明なので、『長柄運河の橋梁』とする。

元々、この下流側の2複線しかなかったのだが、上流側にさらに複線が開通したのが1959年(昭和34年)2月18日。これをもって、梅田~十三間が3複線となった。なお、地形図はその差異をなぞっていない。以下、便宜上、下流側から「下流桁」(トラス+鈑桁)、「中央桁」(トラス+鈑桁)、「上流桁」(鈑桁)と書く。

20110318-01.JPG中央桁。5格間の100フィートプラットトラスだ。おもしろいのは中央格間にハシゴがつき、上弦に登れるようになっていることだ。通常、この手の階段は端柱に刻んである。

20110318-02.JPG支承部分。

20110318-03.JPG中央桁の裏面。

20110318-04.JPG下流桁の裏面。

20110318-05.JPG右=中央桁、左=下流桁。

20110318-07.jpg20110318-06.JPG上流桁。これのみ、1958年(昭和33年)製造である。他のトラスは、1926年(昭和元年)7月3日開通となっている。

この3複線区間の歴史はいささか複雑である。私自身が阪急に詳しいわけでも基礎的知識があるわけでもないので、ボロがでないように書く。

・1910年(明治43年)3月10日 箕面有馬電気軌道がこの区間を開通。
・1926年(大正15年)7月5日 高架化(下流桁と中間桁使用開始)
・1959年(昭和34年)2月18日 3複線化(上流桁使用開始)

20110318-07.jpg上流桁のみ銘板がある。上り線の桁の東側、梅田方のもの。

京阪神急行電鉄株式会社
活荷重 71.12t 電車荷重
支間 35.600M
重量 37.080T
汽車製造株式会社
昭和33年製作

「京阪神急行電鉄」と名乗っていたのは、1943年(昭和18年)10月1日 から1973(昭和48年)3月31日限り。
「汽車製造会社」が存在していたのは、1972年(昭和47年)まで。

もう一丁。下り線の西側、梅田方についているもの。
20110318-08.jpgこちらは左上のネジが飛ぶのが仕様らしい(笑)



京阪電鉄 宇治川橋梁(京都府)の続き。

20110316-02.JPG下流側から。左が京都方、右が大阪方。

この橋梁は宇治川橋梁の兄弟で、基本的には同一仕様。両端が少し短い5パネルのプラットトラス、これはおそらく長さ25mほど。中間7連が6パネルのプラットトラス、これが宇治川橋梁と同じなら36mほどとなっている。文末資料によれば、径間は28.2mと37.8m。

20110316-04.JPG上流側から。撮像素子のゴミが鬱陶しい…。

京都方(右)の2連は、塗装工事中である。

20110316-01.JPG
6連のトラスを側面から。

宇治川橋梁と同じく、このトラスは「コリジョンストラット」が特徴的である。コリジョンストラットとは画像に赤矢印を引いた部材で、端柱(トラス両端の斜めの部材)の中間から下弦材の第1格点とを結ぶ部材。

このコリジョンストラットがあるのは、たしか英国系トラスだったと記憶する。1880年代の200フィートダブルワーレントラス(錬鉄)において、日本で建築師長であったポーナルの元で設計された桁にはこのコリジョンストラットがあった。しかし、それを英国在住の顧問技師、シャービントンがチェックしたところ、コリジョンストラットをやめ、垂直材を追加するなどした例がある。

また、1896年に開通した、やはりイギリスのハンディサイドで製作された日本鉄道の隅田川橋梁にも、コリジョンストラットがある。リベット結合の200フィート複線プラットトラスで、これはのちに川崎の江ヶ崎跨線橋に転用されている。現在は撤去されたが、写真は残っている。
在りし日のの江ヶ崎跨線橋。川崎市のサイトにリンク)

コリジョンストラットは、意味からすると「対抗する支柱」のようなものになるのだろう。引張力がかかるらしいが、なくてもいいということは、ほとんど意味をなさないということか。計算する術もなく、ただスケルトンをなぞるがまま。


20110316-03.JPG話を戻して、橋門構。向かって左が塗り替え中。ひとつ奥の桁は、左側のトラスの一部だけが塗ってあって、いかにも作業の途中らしくて好もしい。


この木津川橋梁については、とくに短い桁だけでも塗装標記を探して撮るべきだった。失敗した。

(追記)
この複線トラスになる以前、ここには別の9連(*)の複線トラスが架かっていた。径間28.2mと37.8mの2種類があり、車両大型化による耐荷力が不足するために架け替えられた。『鉄道ピクトリアル』1984年1月号に写真が掲載されている。

鉄道院設計桁を元にしているが、走行するのは電車のみのため、耐荷重を軽くし、「軽快」(後述資料)な姿をしていた。

(*)『明治時代に製作された鉄道トラス橋の歴史と現状(第6報)--国内設計桁--』(小西純一・西野保行・淵上龍雄)によれば、「木津川に7連、宇治川に9連」という旨の記載がある。しかし、現在は木津川に9連、宇治川に7連なので、これは誤記であろう。


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