やはり、なんというか、「異常感」はない。 反対側に回り込み、今度は上から。 銘板を探す。 1959年12月
栃木県建造 建示(1955)二等橋 製作.架設.日本橋梁株式会社 材質.SS41 「製作」などの後の「.」が気になった。 1959年。まだ50年ちょっとしか経っていないのに架け替えられてしまうのは、この幅員ゆえだろう。大型車同士のすれ違いは無理だ。 この大道泉橋は、トラス桁を撤去した後の写真が、なぜか(?)写真素材サイトにある。売っているものなので転載は控えるが、ぜひご覧いただきたい。 http://pixta.jp/photo/2376073 こちらの方のブログには作業車が写っている。 どうやら、桁をクレーンで持ち上げて地上に降ろしたあと、解体したようだ。 また、こちらの方のブログを拝見すると、さらに先代の橋の記憶や、開通記念碑(現地では見あたらなかった)の写真がある。 作業日を問い合わせて、見に行ってみようかしら…。葬式厨? PR
国道20号 新大月橋の旧道・旧旧道・大月橋
国道20号の大月橋(上路カンチレバートラス)のつづき。中央本線の新第二桂川橋梁である。なぜ「第二」なのかといえば、東京方に新桂川橋梁というものがあるのである。そのあたりは 中央本線 新桂川橋梁(1) 中央本線 新桂川橋梁(2) に詳説した。 場所は、大月橋と同じくここ。 桂川の上流側(富士吉田側)からはこのように見える。 ここでは橋梁全体は見えていないので別の場所から… いずれにしろ、5パネルの上路ワーレントラス。通常、上路トラス橋は、両端の形状が斜めではなく垂直材で終わっているが、実際にはその部材は単純な圧縮力を受け止めるだけでそれほど重要ではないので、この場所のように橋台がその役割を果たす場合は省略できる。 振り返って。 橋台には銘板があった。 設計 東京第二工事局 施行 勝村建設株式会社 設計荷重 KS18 基礎工 鉄筋コンクリート 基礎根入 天端から18M.00 着手 昭和39年8月24日 しゅん工 昭和40年8月23日 この区間が複線化されたのは昭和41年(1966年)11月30日である。 かつてここにはA&Pロバーツ製の200フィート上路プラットトラスが架けられていた。1901年(明治34年)製で、1902年(明治35年)開通。しかし、不思議なことに、『明治時代に製作された鉄道トラス橋の歴史と現状(第5報)米国系トラス桁・その5』(小西淳一・西野保行・淵上龍雄)によれば、撤去は昭和43年(1968年)だという。そうすると、複線化の時期と合わせるには、 1)既設線に平行して新線を設置。新線を下り線とする。上り線は旧橋のまま 2)上り線の旧橋を交換する という手順が必要となる。そうでない方法を取るなら、さらにもうひとつ廃橋跡があるはずである。このあたりがちょっとわからない。
中央本線 新桂川橋梁(1)の続き。
周辺にある架橋記念碑について。 「架橋記念碑」となっているが、慰霊碑でもある。 この桂川橋梁は全長五一二米高さ四〇米で其の雄大にして優雅な 姿を桂川の水面に映す景観は実に近代美の極致であります 国鉄は鳥沢猿橋間の復(ママ)線建設に二十年の歳月と約十五億円の巨費を 投じ施工昭和四十三年九月二十日開通しました 而して茲(ここ)に尊い殉職者 高橋正光 宮脇貞夫 古野信昭 望月光雄 四君の冥福を祈ると共に苦心の連続作業で完成した 全従業員の労苦 を感謝して後生に伝へるものであります 昭和四十三年九月二十日 鳥沢工業区長 佐藤初男 鳥沢駅長 久島 薫 汽車製造KK(キは、サンズイ+気、で記載) 竹中土木KK 建設塗装KK ○○工業KK 熊谷組KK 調布保正石材 すぐ下には道路橋がある。そちらは曙橋といい、記念碑まである。 「新桂川橋梁」ということは「旧」もあるわけだが、それは後述する。この「桂川」は相模川の山梨県での呼び方であり、山中湖を水源をする。その桂川をまたぐ部分がこの長大なトラスであり、川でない部分は支間40mの合成桁が架けられている。それぞれ大変な高さがある。 少し左に振って…… まずはトラス、セオリー通り、真横から見てハの字型になる部分に圧縮力がかかるので、ハの字型の斜材は左右のトラスを対角線で結ぶ部材を付加している。 そして、この画像を見るとよくわかるのだが、あくまでも桁橋としての機能は巨大なトラスが負担する。その格点を、まるでプレートガーダーのような縦桁が結び、その上にレールが敷かれる。縦桁は、スティッフナーが内側についているため、トラスの表面とあわせてツルリとした印象を見るものに与える。 猿橋側の端に、銘板が… このトラスを製造したのがどこなのかちょっと調べたが、どうやら汽車製造株式会社だったらしいことがわかった。もう少し掘ってみようと思う。 鳥沢方には塗装標記がある。 位置 鳥沢~猿橋間81k848M60 支間 70M+130M+70M 3径間連続トラス 塗装年月 2002年3月 塗装回数 4回塗 塗装種別及塗料名 下塗1層中塗2層・3層 厚膜型変性エポキシ樹脂塗料 上塗り ポリウレタン樹脂塗料 塗料メーカー 日本ペイント株式会社 施工者 建設塗装工業株式会社 これを見ると、なぜ「km」を意味する「k」が小文字で、メートルが大文字なのかとか、不自然な文字間隔などに違和感を持つ。 さて、いよいよ下へ…。 新桂川橋りょう 設計 東京第二工事局 施工 株式会社熊谷組 設計荷重 KS-18 基礎工 鉄筋コンクリート工 基礎根入 天端から[11.0]M 着手 昭和42年7月20日 しゅん功 昭和43年7月19日 この銘板は橋脚にもついていた。基礎根入の部分だけをそれぞれ変えている。中央径間を支える橋脚のうち鳥沢方のものは、「根入 天端から31M」とあった。 外に出て、合成桁に戻る。 首都高でも見ているのかと思うような、すらりと伸びた合成桁。箱桁部分が鋼製、上路の床版がコンクリート製か(←推測)。この合成桁部分では、線路はバラスト軌道となっている。 支間40mということ以外はトラスと変わらない。 長くなったので一度切る。
東海道本線上神崎川橋梁(上り内外線)
東海道本線上神崎川橋梁(下り内外線) の続き。 4複線のうち、東から3組目がこの梅田貨物線である。 上神崎川橋梁(上り内外線)と同じと考えていい。製造も同じ汽車会社で1923年である。よって、ここも単に見てきただけ。 上の航空写真のとおり、ほとんど引けないのでこんな撮り方しかできなかった。橋台に登ればよかったかな…。 その橋台。 そのハシゴの後ろというか、その部分のコンクリート表面には流し込んだ際の型枠の木目がうっすらと残る。また、骨材が適当というか、周辺で採取したのか玉砂利が多く混ざっている。 支承が乗っかる橋台の表面はそのようなことがないので、強度が要求される部分はもっと「ちゃんとした」施工になっているのかもしれないが、これは考え過ぎかもしれない。 こうしてディテールを見比べると、兄弟橋だということがよくわかる。 北方貨物線に続く。 <参考文献> ・歴史的鋼橋集覧 |
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