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20110723_001.JPG国道254号川越街道を下り、新・環八との交差点を過ぎたあたりで右に国道17号新大宮バイパスが分岐する。ここに、ルート切り替え区間がある。


北側に平行する国道17号のバイパスなのに、国道254号から分岐するのがちょっと不思議な感じもするが、そんな例はそこらじゅうにあるのでパス。

この旧ルートから現在のルートに切り替わったのがいつか、ちょっとわからない。旧ルートを走っていた記憶は明確にあるので、1990年代後半から2000年の間ではないかと思う。記事冒頭の写真の立て看板は「建設相」が塗りつぶしてあるので、2001年1月より以前からその看板があったことがわかる。

航空写真では、1989年のものに旧ルートが写っている。
20110723_ckt-89-2_c11_20.jpg国土画像情報より転載、トリミング)

現在、この旧ルートは資材置き場となっている。しかも、「国道20号新宿こ線橋関連工事」の資材だそうだ。

20110723_000.JPG金網の上から覗いてみる。マンホール、可搬式ガードレールなどが置いてある。真正面、カーブする道路のアウト側にある壁と矢印は、現役だったころの姿をはっきりと覚えている。

20110723_002.JPG東側から見下ろす。左右方向に走っているのが国道254号川越街道で、左が池袋方面、右が成増方面。現在は国道254号との間は歩道が設置されているが、当然、この旧ルートが現役だったときには歩道などなく、横断歩道である(上記1989年の航空写真参照)。

20110723_003.JPG視線を右に向ける。なんという贅沢な資材置き場。

この写真を撮った場所は住宅街であるにもかかわらず、不法投棄の冷蔵庫や机があった。大きな国道沿いというのは荒れやすいような気がする。



この新大宮バイパス、つまり北町交差点から高島平で首都高が覆い被さる地点までは、鋪装路面が4車線分ありながら、車道は2車線である。その流れも、必要に応じて随時変更されているようだ。ただし、ごく一部の区間だけ、4車線分の幅の用地は確保してあっても、道路がない場所がある。ここだ。



東側、橋脚だけ準備してあるものの、桁が架かっていない。ここだけなのだから架けておけばいいのに! と思うのだが、もしかして、この区間に橋がないことを言い訳として、前後の4車線区間を2車線に規制しているのかもしれない。

その、橋があるべき部分に北側からアプローチする。

20110723_005.JPGこのように、あとはアスファルトを敷けばいいだけになっているように見える。そして画像奥、唐突に車道がおわる。なお、画像の右上と左下に黒い三角形があるが、フードがかぶってしまったようだ。。。

20110723_006.JPG先端まで行くと、当然のように金網で塞がれている。その向こうには、鉄筋を剥き出しにした橋脚が立っている。これは北から南を見ている。

20110723_004.JPG地上に降りる。南か北を見ている。


ここが4車線になれば…とも思うが、現状、新大宮バイパスのこの区間は、それほど渋滞するわけでもない。だから、新大宮バイパスが北町を突っ切って南下し、平和台あたりまでつながるまで、しばらくはこのままだろう。

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20110625-1.jpg幹線道路の脇には、こうした「道路改良跡」が無数にある。ここ、磐田市の改良跡も、クルマで走っていてふと目に付いたものだ。

以前は曲線で勾配を登っていたのだろう。それを、なるべく直線敵にして見通しをよくした結果、外側に膨らんでいた部分が廃道化した。新しい道路には新たにガードレールが設置されたため、一切、クルマは入れなくなった。

こうした空間は、天気がいい限り、とても心地よい。

20110625.jpg反対向きで。アスファルト路面にのたくる草。右上と左下には、レンズのフードカブリ(スミマセン)。右のガードレールの下は、天竜川。


場所はここ。


古い航空写真を見ても、これがわかるほどの解像度のものはない。このまま、この改良跡は草に埋もれていく。


PC222728_R.JPG

12月21日(火)16時、東京地裁627号法廷にて、丸田祥三氏が長年悩まされてきた「風景剽窃」を問うた裁判の判決が言い渡されると聞き、傍聴に行った。傍聴に行くのは初めてである。

10分ほど前に法廷に入ってみたが、だれもいない。ひとりもいない。そんなものか。いったん廊下に出ると、丸田さんの話し声が聞こえた。行ってみると、待合室のようなところで、同じく傍聴に来た方3人(それぞれ別個で来ていた)とお話されていた。5分ほど前に入室すると、徐々に傍聴人がやってきた。おそらく20人くらいはいたのではないかと思う。丸田さんは傍聴人席の隅に座った。原告側席につくのではないのかと驚いた。

裁判官入室。全員起立、黙礼。柵の向こう側、原告側席にも被告側席にもだれもいない。、裁判官(と事務の人?)しかいない。そんなことを思っていると、判決が読み上げられた。

「原告の請求を棄却する。裁判費用は原告の負担とする」(記憶による。細部が違っていたらすみません)

読み上げた直後、裁判官らは起立、黙礼をして退席。ほとんどの傍聴人も一斉に退席。この間、ほんとに一瞬であった。メモを取ろうとしていた私も呆気にとられた。ペンを持ち直す時間すらなかった。もっとも呆気にとられたのは丸田さんであろう。判決文のなかで「盗作」の基準を明示することもなかったのだから。私を含めた数人の傍聴者と丸田さんが、裁判官が去った法廷に残った。あまりにも呆気なかったが、傍聴していた栗原景さんのお話では、民事裁判では、刑事事件と違い、法廷では認定した事実は言わずに書面で出されることが多いらしい。その書面は後刻、弁護団が受け取ることになった。のちにわかったのだが、その書面は通常よりもずいぶんと分量の多いものだったようだ。(この段落、「傍聴していた」以降、一部事実と異なっていたので修正しました)


丸田さんに何を話しかけていいのかわからない。何しろ1998年に被告が本を出してから12年間、悩み続けたことへの答えが、数秒で読み終えてしまう単語しかなかったのだ。1998年、丸田さんはまだ34歳である。いまの私の年齢よりずっと若い。まだ「お兄さん」と言っていい年齢のころから、痛めつけられてきたのだ。考えれば考えるほど、気が遠くなる。

たぶん、丸田さんも実感がなかったのだろうと思う。場所を変えて、栗原さん、私、他の傍聴者おふたりと5人でお茶を飲んだ。18時半頃、丸田さんは記者会見に向かわれた。記者会見は「司法記者クラブ」所属の人たちしか(たぶん)入れないので、私にはどういうものだったのかはわからない。後刻、丸田さんにお聞きしたら、会見に来てくれたメディア各社は、カメラマンが同行しているということもあり、この問題の本質をきちんと理解されていたようだということだ。

記者会見の結果が最初にネットに載ったのは時事新報か。参考までにリンクを置く(どれも、いつまでリンクが生きているかはわからない)。
時事通信
朝日新聞
日経
読売新聞




PC222723_R.JPG

場所を阿佐ヶ谷の「よるのひるね」に移し、23時から、丸田さん(中央)に枡野浩一さん(右)と切通理作さん(左)がインタビューするような形でUSTREAMで「枡野書店ラジオ」が生放送された。思っていたよりも狭いスペースで、でも20人以上は来ていたと思う。この時刻なのに。夏の「盗作かもしれない」でご一緒した方や、廃道写真集製作取材でご一緒した方などもいらした。私は栗原さんといっしょに、お三方と上の写真の距離の席に着く。

このときのUSTREAMはアーカイブされているのでぜひご覧いただきたい。判決時には読まれなかった、廃十数枚分(七十数枚かもしれない)の判決文がどういうものであったか、どういう問題をはらんでいるかが話されているはずだ。
http://www.ustream.tv/recorded/11562832
http://www.ustream.tv/recorded/11563150
http://www.ustream.tv/recorded/11563628

結局、USTは0時半頃で終了。配信を終了したあと、終電の都合などで客は半分ほどになった。それでも12人ほどが残った。輪が小さくなった。そしてトークは続いた。USTとは違って、みんなでテーブルを囲んでいるような雰囲気の中で、丸田さんの表現というものに対する考えや、その発表、今回の争点の本質などが話題の中心となってきた。丸田さんは他人に気を遣うあまりほとんど主張しない方なのだが、徐々にそれがが解け始めたか、本当の気持ちがその場にいた人に突き刺さるように伝わってきた。

ここで私は書くのをやめる。その場の丸田さんのお話は、一字一句間違わずに文字にしたとしても、誤って伝わってしまうような気がするからだ。裁判にまで持ち込まざるを得なかった、丸田さんの気持ちを、もし私が誤って伝えてしまったら取り返しがつかない。その場の雰囲気があってこその、丸田さんや客(?)の発言なのに、それを棒読みされることの恐ろしさ。あるいは「私の丸田祥三論」になってしまう恐ろしさ。そういう懸念があるため、私は書かない。いつか丸田さんがご自身でお気持ちをお書きになると思うから、「UST後」を知りたい方も多いとは思うが、待ってほしい。

そのまま2時、3時、4時、5時…となり、まだまだ丸田さんを囲む話は続いていたのだが、私は中座し、帰宅した。朝から仕事であることが恨めしかった。その後、ほどなくして終了したようだ。

<ご参考>


丸田祥三さんと廃道取材に行った際、身延線の笛吹川橋梁に立ち寄っていただいた。橋梁については後日書くが、西側から撮ろうとして堤防に上がって驚いた。ここは旧道ではないか。

20101206-1.jpgアスファルトが敷かれ、その上には「40高中」の文字。しかも、頭を突き合わせて点対称にふたつある。写真で言えば、左下にひとつ。右上に、向こう側から読む形でもうひとつある。

しかし、この道に一般車は入れない。このまま西に進むと現在の国道140号と合流するが、この堤防道への進入口には車止めがある。そして、この先(東)、身延線との交差点は柵がしてある。この堤防道が、直接国道140号だったのかどうかは未詳。「県道」と表現しているサイトもある。

柵はこのような感じ。
20101206-2.jpgどうやら踏切だったようだ。

「山梨の林道事典」という素晴らしいサイトがあるのだが、その中で、ここが踏切だった当時の写真が掲載されている。こちら。この踏切は「今川踏切」というとのこと。また、その記事掲載時点では「橋梁塗り替え中」だった。笛吹川橋梁の塗装標記から、リンク先が撮影されたのは2005年6月前後ではないか。

幸い、1975年撮影の航空写真がある。元画像はこちら
20101206map.jpg見事に堤防の上を走っている。真ん中の緑の4連トラス橋が笛吹川橋梁で、その左岸(画面下側)の東西に、それぞれ田んぼの中に下りる逆三角形に見える道がある。そして、田んぼの中に、現在の国道140号の姿はない。


偶然しった旧道だが、なかなかに不思議な情景だった。もっと撮っておくべきだった。

20101205-01.JPG山梨県早川町、井川雨畑林道から見える稲又川橋(仮)に、丸田祥三さんと行ってきた。丸田さんはすでに3回目、私は初めて。私が見たいと言っていたら、連れて行ってくださった。ありがたくご厚意に甘えて丸田号の助手席に収まる。名称を「(仮)」とするのは、文末に掲げた報告から考えて、もしかするとここにはのべ三つの橋が架かっていたかもしれない、などと思ったからである。

この稲又川橋(仮)。丸田さんが「ぜひ見てほしい」と仰っていただけのことはある。「山行が」と丸田さんの作品で、橋の概要は知っていたつもりだったが、自分の目で立体的に見て驚いた。怖気が走ったと言っていい。怖い。真下をくぐったり、見上げたりするのはもっと怖い。


この橋は、mixiの「山行がコミュ」で存在が明らかになったものだという。詳細はよっきれん氏のレポートをご覧いただきたい。<前編><後編> 同時に、発見者である「明日、本栖湖集合!」さんに感謝申し上げる。

蛇足になるかもしれないが、「丸田祥三氏は、自分が撮った場所と同じ場所で撮った他の人を訴えた」という大きな誤解がなされてる。事実はその逆で、丸田氏はデビュー当時から、電話や手紙で聞かれるがままに読者に撮影場所を無数に教えている。訴えた内容は、「同じ場所で撮るな」ではない。詳細はこちらをご覧いただきたい。

このレポは発表されたときに拝読し、その後何回か拝見したが、今日行く前にはチェックしなかった。それでも、帰宅後に自分の撮った写真と見比べると同じところを狙ったカットが多いのがおもしろい。

場所はここだ。







対岸からは、冒頭のように見える。見るからに危うい。

20101205-02.JPG隣接する、数段高い新橋の上から見下ろす。鈑桁は外側にはスティッフナーがなく、内側のみである。

20101205-12.JPG袂まで下りる。道中、路面は、つい先日まで川底であったかのようにグズグズだ。

桁のよじれっぷりがわかるだろう
。写真左手が稲又川の上流、右手が下流である。稲又川は雨畑川に合流し、早川に合流し、富士川に合流して太平洋に注いでいる川だ。

左右の主桁上部には、コンクリートを固定していた痕跡がある。そして、主桁のフランジ部分には多数の岩礫が乗っかっている。そして、桁の左側には、対岸の廃橋脚が見えている。

20101205-13.JPG対傾構も歪んでいる。よほど強い力が加わったか。この高さまで水かさが増せば、浮力で桁が浮き上がり、そこに水圧が加われば、通常は橋脚に「乗っかっているだけ」の桁など移動してしまうだろう。

20101205-07.JPG河原まで下りて、対岸の橋脚を見る。左上に見えるトラス橋は、1983年8月日本鋼管製の稲又川橋(現在線)である。

20101205-11.JPG河川敷から、突端。「ひっかかっているだけ」感がすごい。桁の下にいると、ものすごい圧迫感がある。

20101205-10.JPG主桁。これが曲がっているのだ…。

20101205-08.JPG反対に、突端側から。

20101205-09.JPG橋脚の袂には、林鉄用とおぼしきレールが引っかかっていた。


このような稲又川橋(仮)だが、どうしてこうなったのか。私なりにググった結果はこう。

●1959年(昭和34年)の伊勢湾台風で、ここは10mの土砂に埋め尽くされた。(出典:ADAMSさんのページ
●1982年(昭和57年)~1985年(昭和60年)の間に破損した橋梁のリストには、「稲又」に類する名称の橋はない。(出典:国交省甲府河川国道事務所の資料
しかし、
●1982年(昭和57年)の台風10号、18号、1983年(昭和58年)の台風5号により、雨畑川では、台風10号の総降雨量603㎜最大時間雨量49㎜、また、台風18号において総降雨量468㎜最大時間雨量31㎜となり、1982年には約160万立米、1983年には約180万立米という大量の土砂が流出した。この土砂の流出により、当該事業付近においては 河床が10mも上昇し、上流集落の唯一の生活道である県林道の稲又橋を埋没させるという状況が発生した。(出典:国土交通省関東地方整備局富士川砂防工事事務所による稲又第三砂防堰堤工事報告を要約)
●この廃橋の下流に、平行する3本の鉄骨が刺さったコンクリートの塊が放置されていた。それがこの廃橋の桁でないことは明白だったので、撮影しなかったのが本当に悔やまれるのだが、どうやらそれが「稲又川橋」の橋脚だったらしい。(出典:山梨河川研究会の写真


疑問をまとめる。
・「稲又橋」「稲又川橋」という二通りの表記があるが、これは単なる誤記なのか、それとも別々の橋なのか。
・現在の橋は「稲又川橋」・
・稲又川橋(仮)下流に横たわっている鉄骨橋脚は、果たしてどの橋の橋脚なのか。

不可解な点が多い。よって、表題を「(仮)」とした。他意はない。航空写真が1/15000であり、不鮮明であるのが非常にもどかしい。

冒頭のとおり、丸田さんは今回三度目の探訪。そして、二度目の探訪時にものすごいカットをものにしている。同じものを撮れと言われても無理。ありえな い。同じレンズ使ってもできない。ものすごい。写真集に掲載するのはそのカットになると思うので、今回はヨッキれんさんと同じカットにせよ、私は私 が撮ったものとしてアップする。レポートとしては丸田さんが出てこなくて恐縮だが、いっしょに河川敷で撮影を重ねた。

また、今回、これ以外に廃隧道1件とかつて車道だった堤を取材した。


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