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2024年度、羽田可動橋の撤去工事が始まる。海老取川の河口に架かる首都高の橋で、空港西入口から東に向かうクルマが使用した。もともとは、空港西から入ってすぐ海老取川をくぐる羽田トンネルに潜る構造だったが、危険ということでいったん上空を迂回して本線に合流させるために1990年に開通したルート。しかし、湾岸線の開通で本線の通行量が減ったこともあり、1998年に使用停止となっている。

このたび、羽田トンネルの更新工事に伴い、羽田トンネルの使い方とともに大幅に変更になる。

首都高の資料より)


現在、羽田西から入るとそのまま羽田トンネルに突っ込む形になっているのは前述のとおり。羽田可動橋に行くルートは駐車場のようになっている。しかし、路面の表示は「出口」ぽくなっている。非常用?

 
さて、羽田可動橋。二つの旋回橋が、動かないまま25年以上、そこにある。支点が桁の中央ではないので、カンチレバー的な違和感がすごい。これは左岸側の桁。左岸は近づける。

 
これは右岸側の桁。右岸は首都高の敷地となっていて立ち入れない。

 
使われていない「可動橋から本線への合流地点へのルート」は森ケ崎高架橋という。そこにもある案内サインは、現代のものより一世代古いタイプだ。「C2」などの描き方が異なる(現在は丸囲みではなく右回転矢印囲み)。書体は新ゴDBと思われる(首都高はヒラギノ角ゴではない)。

とはいえ使用停止された1998年はまだ公団ゴシックだったと思われ、使われなくなっても更新はしている律儀な(無駄な)姿勢が見える。

「C2」の描き方から、サイン設置年を推定しようとしたが、2013~2015年ころにこの先に設置されたサインも丸囲みなので、どうもよくわからない。

 
森ケ崎高架橋が本線に合流する地点。バリケードが設置されている。







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天草上島・下島の間の本渡瀬戸は、地図だけ見ると運河のようにも見えるが、もともとの海峡だ。


そこに架かる昇開橋が、この瀬戸歩道橋。昇開橋だ。動画は倍速。渡ったらすぐ上昇した後、けっこうな頻度で船が通るので、戻るのにやきもきしてしまった。

 
天草下島側から。左の建物が操作塔。

 
 
 
主塔上部にモーターがあるのだと思うが、その操作用のケーブルは下島側の主塔を上り、昇降桁の上空を通って上島側の主塔に渡っていると思われる。

これらローラーはガイドの役割のみで、ローラーに動力はない。

 
 
 
下島側の親柱、左は「昭和53年3月竣功」、右は「瀬戸歩道橋」。



この本渡瀬戸には、古くは1923年に旋回橋が架けられ、1958年には跳開橋となった(写真2点は国土交通省九州地整熊本港湾・空港整備事務所より)。1枚目写真奥の天草瀬戸大橋は1974年完成。高さがあり、歩行者は大幅な迂回と昇降を強いられるために、この瀬戸歩道橋が設置された。

 
 
幅は1車線分、といったところだろうか。人もバイクもそこそこ通行する。

 
天草上島側。

 
 
 
桁が上がっている間は赤信号がつき、遮断桿が下がる。鉄道用の装置とは異なるようだ。

 
 
昇降桁の裏側。カウンターウエイトは見えない。主塔の中にでもあるのだろうか。

 
 
天草上島側の親柱は、下島側と同じだ。





 
北海道・道北の日本海側、初山別村と遠別町の間を流れるオタコシベツ川にかかる歌越別橋。国道232号の旧橋にあたる。「歌越」はオタコシの当て字と思われるが、行政地名としての「歌越」は「ウタコエ」と読む。かつて近くにあった国鉄羽幌線歌越駅は「ウタコシ」だった。

この3径間の、一見コンクリート桁に見える橋は、実に不思議な構造をしている。

 
近づけないのでドローンを飛ばす。中央径間を見ると、側面から見て逆凹型をしたコンクリート床版下に木材の桁が見える。さらに下、中央部分に添桁がある。コンクリートと木材を組み合わせた複合桁、「木コンクリート橋(もくコンクリート橋)」だ。

 
ドローンのカメラが上を向いてくれればいいのだが…。木材部分は7本が並行している。

寒地土木研究所月報にある「北海道で普及した「木コンクリート橋」の歴史的価値について」を見ると、この構造は戦前の鉄の節約の流れで生まれたもので、1938年に北海道庁土木部試験室の高橋敏五郎により開発されたもの。「圧縮応力に強いコンクリート床版と、引張応力に強い木桁が高いに協力し一体となって…」とある。

一般に、コンクリートと木材を軸方向で考えると、圧縮に強くて鉄は引張に強いとされ、トラスを組む場合、部材がコンクリートと木の場合はハウトラス、鉄ならばプラットトラスに組む。この複合桁の場合はコンクリートが上部にあって圧縮力を、木材が下部にあって引張力に抵抗するようだ。かつ、それに適した(剪断強さが大きい種類の)木材を使うということだろうか。

「高橋敏五郎と木コンクリート橋」(2010年)ほかによれば、木コンクリート橋は戦前から昭和43年代までに350橋以上が架けられ、国道には246橋あった。それも昭和60年代に更新完了となったが、それでも旧橋として現存するものが6橋ある。写真では見えないが、コンクリート床版と木桁は単に上下にくっついているわけではなく、木桁上面に歯型(矩形波のような形)をつけ、さらに両端部各2割ずつを鋸型(ノコギリ波(刃ではなく)のような形)とし、接触面の剪断を伝達するキーとなっているらしい。

木桁と添桁の間も歯形となっている。これも同じ目的なのだろうか。

 
 
歌越川橋は、現在、通行止めとなっている。












 
門司港にある、歩行者用の跳開橋(可動橋)。写真左に見えるのは関門橋。手前(南)が親橋、対岸(北)が子橋で、持ち上がる仕組みは異なる。

 
親橋の桁は片持ちで、主塔から吊っている。主塔の根本をピボットとして、ケーブルを巻くと主塔ごと傾き、桁を持ち上げる。門司港のクルーズ船が出入りすることがあるようだが、この橋がなくても船溜まりを数百メートルほど迂回すればいいだけなので、役割としては観光用、現地のシンボルだろう。

 
写真左が、陸地側(ウインチ側)で、2本のケーブルは主塔内の動滑車に繋がる。右が桁側で、こちらのケーブルは桁を吊っている。

対岸に渡る。
 
こちらは子橋(降りている状態)の可動部分。桁下を油圧で押し上げる。

 
青焼きにも見える色使いの説明板があるが、けっこう褪せている。
 
山陽本線三石駅のほど近くにある4連の煉瓦アーチ橋。なかなか写真が撮りづらい場所で、朝行ったために順光の下り線側(南側)は陰がかかり、しかも手前に歩道橋、その手前に国道2号のバイパスの橋梁。上り線側(北側)は日陰でクルマが停まっていた。

 
右端(第1径間、神戸側)のアーチは車道になっている。

 
左側(第4径間、岡山側)のアーチの半分は人道。これらの道路・人道は、当初からなのか、後からこうしたのかはわからない。

 

「中国建設弘済会アーカイブス」の解説によると、下り線のアーチ部分に「竪積み」があるとのことだが、よくわからない。

 
 
 
上り線側(北側)。右側に市のクルマが停まっていたが、用が終わったらしく、見学している間に立ち去ってくれた。

「中国建設弘済会アーカイブス」の解説によると、上り線のアーチ部分に「弧状の異形煉瓦」があるとのことだが、これもよくわからない。

<追記:@roadexplorerさんより下記のご教示をいただきました>


中国建設弘済会が誤記し、それを国交省が孫引きして、誤記を拡散している。改めて、「群」を個別に解説している土木学会の「中国地方の選奨土木遺産」を見ると、竪積みがあるのは野道架道橋、異形煉瓦があるのは寺前川橋梁上り線のようだ。
<追記ここまで>

 
この三石金剛川橋梁(三石金剛川拱橋とか三石煉瓦拱渠群(のひとつ)ともいう)は、最初は単線で開業したものを、複線化にあたり上り線側に拡幅している。その境はヴォールト内部にハッキリと見えている。写真右が下り線側(当初側)、左が上り線側(線増側)。

そもそも備前は耐火煉瓦の産地。地元で焼かれた煉瓦で築かれている。煉瓦の歴史としては、いわゆる赤煉瓦から焼過煉瓦(やきすぎれんが)に移行していくが、それが、赤煉瓦の下り線、焼過煉瓦の上り線に見て取れる。

それにしても、この程度の土被りでも水漏れが発生するのは興味深い。土の湛水能力のすごさを感じる。










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