京都府京都市西京区と亀岡市の間にある峠が老の坂峠だ。そこを国道9号と、京都縦貫道が通っている。ここに、仲良くふたつの隧道が並んでおり、片方(上の写真の右。上の写真は京都市側坑口)は車道としての用途を終えて歩行者用となっている。が、いきさつがおもしろい。 まずは隧道を見て行く。 歩道用隧道の坑門。労作・隧道データベースによれば、1933年(昭和8年)竣工、幅員4.7m。坑門はコンクリート製で、ピラスター様のもの(装飾かもしれない)が重量感を持って坑門を押さえている。 「松風洞」という扁額様のものが置いてある。冒頭写真でいえば、「歩行者」標識の向こうにある。 なぜここに扁額様のものがあるのか? 現・車道の隧道にも、この歩行者用隧道にも、それぞれ扁額はある。歩行者用の隧道は、草に覆われていて撮影不能。 扁額様の裏。きちんとここに存置してあるのが見て取れる。 中に入る。蛍光灯がついている。元々車道だったということもあり、広々とした歩道だ。覆工はコンクリート。 亀岡方坑口。ふたつの坑門が並ぶ。向かって左側が歩行者用、右が車道。 先に、この歩行者用が1933年竣工と書いたが、隧道データベースによれば、車道用は1965年(昭和40年)竣工とある。が…。 歩行者用の坑門。意匠は京都市側と同じ。「老の坂隧道」という扁額があるのがわかろう。 上写真から180度振り返る(隧道から出てまっすぐ見据えた状態)と、このようにゲートがある。冒頭のYahoo!地図ではこれでもかというくらいにゲートが地図にプロットされている。 さて、こちら側にも扁額様のものがある。 「遠邇之利往来之便」 yoshim氏のサイトに京都国道事務所からの回答として意味が掲載されている。そのまま転載すれば、 「(この道ができたことにより)遠いところにも近いところにも利益をもたらし、往来の便がよくなった。」という意である。 しかも、この文字は北垣国道の書だという。北垣は、滋賀県の琵琶湖疎水を作り、北海道の狩勝峠を選定した田辺朔郎の岳父だ。ん? 北垣は1916年(大正5年)没…? このあたりは後述する。 そして、yoshim氏のサイトにより、先の歩行者用隧道は「和風洞」と言われていたことも判明した。 北垣書の扁額の裏。 さて、いろいろなからくりである。答えを先に書くと、 1)1884(明治17年)頃 現・車道の隧道が開通。「松風洞」とした。 2)1933年、現・歩行者用の隧道が開通。当時は車道。こちらを「和風洞」とした。 3)1965年 「松風道」を拡幅し、車道とした。 4)****年 元「和風洞」を歩行者専用道とした。 地図を見れば速い。すべて2万5000分の1『京都西南部』、時系列地形図閲覧ソフト「今昔マップ」( (C)谷 謙二) により作成。 1922年(大正11年)測図、1925年(大正14年)11月30日発行 初めて発行された地図。ひとつだけ隧道が見えている。これが「松風洞」。隧道の北東に「新峠」、南東に「(旧)峠)の記載がある。 1964年(昭和39年)修正、昭和40年4月30日発行 まだ「和風洞」開通前。 昭和45年修正、昭和47年4月30日発行 ついに隧道が2本描かれる。おそらく、この図では松風洞の拡幅は反映されているだろう。 1979年(昭和54年)二改、昭和56年2月28日発行 2本の老ノ坂隧道のうち、古い隧道が役割を終えつつある。 1986年(昭和61年)修正、1987年(昭和62年)4月30日発行 和風洞が消えた。これが現在の書かれ方に近い。 以上、少し不思議な発達史を持つ隧道と扁額について。実は写真はすべて行きがけの駄賃である。撮ったときはこれが北垣国道につながるとは思いもしなかった。面白いものだ。 PR |
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