一昨日、『「鉄道物語」マイブックでつづる鉄道写真家17人の写真集展』と広田尚敬『Fの時代』の違いを書いたので、その続きとして、広田氏の2冊の写真集をもとに、もう少し書いてみたい。
広田尚敬氏の「鉄道写真60周年」企画として、6社から7冊(インプレスからは出たのかしら…)刊行するというものがあった。そのうち、所持しているのは表題の『Fの時代』(小学館)と『Cの時代』(JTBパブリッシング)だけである。そのほかの4冊(インプレスは見てない)は、手には取ったけれど、買ってはいない。本当は、あと1冊、『昭和三十四年二月北海道』(ネコパブリッシング)は欲しいのだけれど、いちまんえんにおののいて未入手である…。 『昭和三十四年二月北海道』は置いておいて、なぜ『Fの時代』と『Cの時代』を持っているのかというと、この2冊が突出して「写真集」として、優れているからだ。私の「写真集観」にあうのだ。広田氏の作品といえど、編集がダメなら写真集として鑑賞できなくなる。『Bの時代 鉄橋コレクション』(講談社)はその悪い例で、「過去に撮ったものから、鉄橋を撮影地にしたポジだけ集めました」というようにしか見えない。編集者は、広田氏が「なぜそこで鉄橋を構図に入れたか」などは考えていないのではないか。『Cの時代』の中にも、鉄橋(この言い方は好きではないが)を渡る作品はいくつもある。効果的に組み合わせてある「流れ」もある。それができていないのは、編集が悪い、のだ。 さて、『Fの時代』と『Cの時代』。この2冊は、判型も違うし、制作の方法論も違う。推測だが、『Fの時代』は、贅を尽くして「思う存分、作り上げた」もの。4935円という定価がそれを物語る。紙、印刷、装丁、すべてに手を抜いていない。横長の本を、書店の棚に並べやすくするために箱入りにするなど、それだけで単価で数百円はかかるはずである。でも、できた。思う存分できるのは、編集者としてこれ以上羨ましいことはない。一方、『Cの時代』は「キャンブックス」といA5判のシリーズに組み込まれている。装丁(いわゆるデザイン)も価格もシリーズの統一感や制約がある。なのに、この2冊の写真集の展開は、そっくりなのだ。 具体的に同じという意味ではない。読者が、「次の展開はこうかな…」と予測できるのだ。言い方を変えれば、読者が自然に「流れ」を感じることができ、引き込まれていく。どちらかといえば『Cの時代』よりも『Fの時代』のほうが、より強く「流れ」を意識できる。例えば、44ページから。 隧道から飛び出す、右向きのC59 ↓ 右向きC62の後追い ↓ 右向きD52の真横 ↓ 右向きD51と左向きC59のすれ違い(ここで向きが入れ替わる) ↓ 左向きC59 ↓ 左向きC59 ↓ 画面左端にC62正面がち ↓ それが引く客車内からC62のテンダ (この流れ終了) 任意のページで、こういう見方を試して欲しい。まず、任意のページで機関車の大きさと進行方向を見る。ページをめくり、次の「それ」を見る。どう違うか、その「差」を憶える。さらに次のページの「それ」を見る。きっと、「差」は同じか、等比数列のように、大きく上書きされて繰り返されていくはずだ。 膨大な数の作品を前に、それをどう並べればベストか…を考えることは、とても大変なことだ。1週間悩んでも答えがでないかもしれない。ただ、コツ はあって、鍵となる作品を軸に考えていく。上記の例でいえば、すれ違う作品が鍵である。また、最初と最後に位置する作品は、最初から「これ」と決まってい るだろう。その間をつなぐように、作品を構成していく。その作業は、「流れ」が見えてこないうちは辛くて辛くてしょうがないけれど、一度「流れ」が見えれ ば時間の経つのを忘れてしまうほど、楽しい。 最近の『レイルマガジン』のフォトギャラリーのページは、この「流れ」が見えないものばかりだ。『鉄道ファン』や『鉄道ピクトリアル』は、もともと見えなかった。要するに、拙い。『レイルマガジン』は、以前は、特集における読者投稿作品のギャラリーにしても、一人の作品によるRMギャラリーにしても、見せてくれたものだったが…。あまりにもダメ続きなので、買うのを止めてしまった。鉄道写真の「見せ方」ということについては、私の好みにとっては、あまりよくない方向に進んでいると思っている。 PR |
カレンダー
最新記事
(11/20)
(11/11)
(11/05)
(10/26)
(10/25)
(10/22)
(10/21)
(10/20)
(10/19)
(10/06)
カテゴリー
プロフィール
ブログ内検索
アーカイブ
カウンター
since 2010.7.30
アクセス解析
フリーエリア
|