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『「暗橋」で楽しむ東京さんぽ 暗渠にかかる橋から見る街』(髙山英男・吉村生著)の刊行を記念してのトークイベントが、2023年1月28日に田原町のReadin' Writin' Book Storeで開催された。ご来場・ご視聴・お買い上げいただいた皆さん、ありがとうございました。

そこで私も少しだけ「新潟の暗橋」の話をしたのだけれど、当日までに現地再訪しておこうと思ったもののかなわず、古い写真と、お借りした写真、SVのキャプチャでの案内となってしまった。その後、新潟の実家に行ったので、いくつか撮り直してきたとともに、発見もあった。

●浦安橋
 
 
 
まず、本町の浦安橋。いまはこんな案内も掲げられているけれど、野内さんの案内で初めて知ったのが2016年3月。

 
2011年のストリートビュー。ブロック塀と一体化していて、たしかにわかりづらい。2014年から案内巻版がある。背後の丸大は子どものころからよく出入りしていたデパートのようなスーパーで、中学生のころは毎日50円玉二つを握りしめて7階?のゲームコーナーに通っていた。そこに行けば、誰か友だちがいたのだ。

●正福寺

 
 
そこから西堀に向かい、寺の境内を覗いてみる。正福寺。西堀沿いの寺は、西堀から参道のような細い道の向こうに本堂がある。たいていは本堂前にわずかな駐車スペースがあるので、クルマはここに入っていく。が、墓参りにクルマで来る人は少ないかもしれない。

親柱のようなものはなかったが、煉瓦の土台の上に経つ鐘撞き堂と、煉瓦造りの建物があった。他の例からすると戦没者関連のお堂かな…。

●勝念寺と勝念寺橋
 
東隣の勝念寺。

 
 
上の写真でも見えているが、門の向こうすぐ左に、いかにも親柱のようなものが見えた。「勝念寺橋」「大正拾五年四月竣工」。


 
 
 
勝楽寺。私は実家の墓はここにある。そして私はここの保育園に通っていた。その前庭に転がるのが勝楽寺橋の親柱。これは以前、野内さんに教えていただいていた。親族の法要で来たときにも見てはいたけれど、写真には撮っていなかったようだ。「勝楽寺橋」「大正十四年六月」とある。この2本しかないようだ。

●真宗寺橋

 
 
イベント時には写真がなく、えちごのいちごさんのブログから写真をお借りした真宗寺橋。鐘撞き堂に立てかけてあった。「真宗寺橋」「昭和十年四月竣工 真宗寺」「発起人…」あと1本は不明。境内で、茂った木の下に入り込んでとか、ちょっとできなかった。

お寺の名前を冠した三つの橋は、いずれも大正10年代。ここからはまったくの憶測だが、そのころ一斉に、親柱のついた橋にかけかえられたとか、そのための寄進を募ったとか、他の寺が目の前の橋を架け替えたのならうちもしなければ…となったとか、そういうことが想像される。

●イタリア橋

イタリア軒の前に「イタリア橋」があって、その親柱がかつてイタリア軒に配置されていた…ということも、えちごのいちごさんのブログで知った。あれだけイタリア軒の前を歩いているというのに…。しかし、いまはなくなっているようだ。イベント後、えちごのいちごさんが調べてくださった。その結果はこちら。

イタリア橋、その後(現在)

それ以前の記録がこちら。
新潟だけど「イタリア橋」
イタリア橋のその後!


●まとめ

 
位置関係はこう。東堀にも多々橋がかかっていたはずだが、そちらも寺町(西堀)のように立派だったのか。親柱はあったのか。古い写真をまとめた本を見れば様子がわかるかもしれない。

* * *

これら以外にも、栗の木川にかかっていた万国橋、他門川にかかっていた鏡橋などが暗橋として現存する。お寺の境内も、探せばもっとあるだろう。それにしても、橋の保存とは、構造としての橋そのもの(上部構造)ではなく、飾りである親柱なのだ…ということを改めて認識した。建物を解体するときに表札だけ残すようなものだ。それがいいとか悪いとかではなく、そういうものなのだ。


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羽越本線の、ある駅の近く。商店だった建物の一角に、紅色の防火壁があった。

大きな円のなかにいるべき紅色のツバメは、残念ながらスプレーで塗りつぶされていたが、

かえって、単に褪色しただけにしか見えなかった。

小豆島の西側、土庄に「くびれ」がある。ここに運河のようなものがあるが、運河ではなく天然の海峡、「土渕(どふち)海峡」である。「世界一狭い海峡」とギネス認定されている。

現在の土庄町は、小豆島の北半分を占めるが、「土庄」は、もともとは土渕海峡の西側の行政地名だ。海峡の東は「淵崎村(ふちざきそん)」だった。1955年にほかの町村とともに合併し、土庄町となった。

「土渕海峡」とは、庄と崎の合成語である。かつてはそのような呼び名はなく、「世界一狭い海峡」としてギネス登録する際に作られた。

 
海峡といっても船が航行するわけではなさそうだ。町役場の前に、海峡を塞ぐような形のカマボコ状の装飾(?)がある。その両端と中央は橋だ。


上空から見ると、日の字型になる。

 
東側から見た写真。海峡の上に歩道がはみ出している。歩道部分はキャンチかと思いきや、実はアーチから吊られている。この写真を撮っているこの橋も吊られていて、つまりはアーチ橋である。「ものすごく幅広の、床版が一部にしかないアーチ橋」ということだ。

 
ちゃんと床版に銘板がついている。

平成5年12月
香川県
上載荷重 1.0TON/M^2
材質 アーチ STK400
   吊桁 SS400
製作 三井造船株式会社

「アーチ」と「吊桁」として銘板がある。

 
西側から。見えている道路は道路橋で、こちらはガーダー橋。その向こうに並行して歩道橋があり、そちらはアーチ橋。

 
道路橋の名前は「ふれとぴあ橋」という。「ふれあい」+「ユートピア」かな。



 
 
2022年末にランツァで日生港から小豆島に渡った。日生港には有料駐車場があり、そこにクルマを駐めてランツァを下ろした。24時間で1000円。

時刻は6時43分頃。夜明けが近い。



日生港の瀬戸内観光汽船の窓口はJR日生駅に隣接している。道路を挟んで港だ。日生港発は8時。

きっぷは自動券売機で買えるが、駐車場を借りるので窓口が開くまで待つ。7時半だったかな。

 
さすが瀬戸内。チョックをかますのみ。

 
甲板は凍っていたが、出港してまもなく直射日光が照りつけるとたちまちに溶けていく。

 
鹿久居島に渡る「備前♡日生大橋」ごしに日の出。



船内の売店は営業していないように聞いていたが(古い情報かもしれない)、開いていたのでうどんをば…。後述するが、営業は9時20分から17時30分らしい。

 
 
1時間10分で小豆島の大部港。ここから約8時間、小豆島を走った。

* * *

 
 
帰り。朝とは雰囲気がまったく違う大部港。きっぷ売り場は1階の赤いクルマの向こう、駐車場の管理室みたいに見える場所。2階の待合室は誰もいない。

 
 
 
17時30分、本日4往復目のフェリーひなせが大部港に着いた。

 
18時15分発の便はクルマは少なかった。

 
売店は17時30分までということで営業していなかった。朝の日生発から営業しているのだから、日生から乗り込んでいるはず。となると、売店の人はこの便に便乗して日生に戻る?











武光橋 PCローゼ橋の直下に旧道が見える。これは、大迫ダム建設のためにつけかえられたものだが、古い空中写真を見ると「付け替え道路のための付け替え道路」のようだ。現道を三代目とすると、暫定的な二代目。かつての集落は、橋となっている二代目の向こう側にあり、初代は三代目の下に埋もれているように見える。橋の上流側の桟橋的な構造からして、仮設的なものにも感じられる。


(地理院地図より作製)

 
2車線にするには幅員が狭いけれど、しっかりと作ってある。これが仮設の道?

 
旧橋の橋脚。下流の大滝ダムのダム湖に相当するので撤去しないのだろうか。

 
上流側。現道(三代目)の直下に護岸があり、そこが旧道(初代)、この桟橋は仮設の二代目?

 
 
ここから橋がかかっていたはずだが、もぎとられたようになっている。

 
対岸の話になるが、武光橋の旧橋を渡った先にシェッドがある。



 
 
武光橋の少し下流にある旧道と旧橋。

2000年代の付け替え道路の写真やR169の歴史については、サイト「3ケタ国道放浪記」に詳しい。



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