5月27日(金)、永田町の憲政記念館の敷地内にある日本水準原点が公開されるというので行ってきた。
入るなりこれ。

んー…。6月3日が測量の日なのはわかるんだけど、でも今日は5月27日で、6月3日には公開してないんだ…。

こんな感じで、大日本帝国水準原点を収めた建物(標庫)の前にはテントが張られ、国交省関東地方測量部の方々が説明のために何人かいた。
私が行ったのは仕事の打ち合わせが済んだ13時頃。まあ、お昼休みの間だ。けっこう、人はひっきりなしに来ていて、常時5人くらいは見学していた感じだ。

日本水準原点についての説明。

隣接して、こちらはそれを収める建物(標庫)の説明。

これが標庫だ。石造に見えるが、後述のとおり、内側は煉瓦のようだ。それをコンクリートで塗り固めているように見えた。
さて、ご本尊。

このように、扉を手前に倒して開けると、中に水準原点がある(扉は開いている)。縦長の透明のもの(白く写っているもの)が原点の目盛りであり、水晶でできている。

その前にはコレが置かれていて、覗くと

こう見える。水準測量の例なんだろうと思い込んでいたが、なんのために、どうやって使うのかの説明をしてもらえばよかった。
真裏に回る。

裏側には、表側よりも大きな扉がついている。先の、水晶が埋め込まれた石は舟形をしていて、そのお尻の部分に「明治二十四年辛卯五月建立 陸地測量部」とある。説明員は「辛卯」を読めないし説明できなかったのだが、それじゃいかんだろう。1891年(明治24年)の干支だ。
この「明治
24年
5月」が重要。
それにちなんで、水準点が24.5mに設定されている。しかし、関東大震災で地盤が沈下したため、先の水晶の目盛り「0」の位置が24.414mになってしまった。現在は、ここから水準測量で各地の水準点の高さを定めている。建前では。
今回、私が滞在していた20分くらいの間で「東日本大震災の影響で、この水準原点が動いたりしなかったのですか?」という質問を5回は聞いた。「まだ精密な測量をしていない。すべてはっきるするのは9月頃になるのではないか」ということだ。同じことを繰り返し説明しなければならない説明員にちょっと同情する。

この水準原点が、どのように地盤に固定されているかを図解したもの。煉瓦積みなんだ…。

さて、テント内には関連した掲示がいくつかある。ここで、「標高」について説明していた説明員が、しれっと「ジオイド」という単語を発していたが、ふつうの人は理解できないでしょ…。

陸地測量部。映画『剣岳 点の記』の原作を読む際には必要かも…。

「今に伝わる明治の測量標識」」。へー。。。
いままで何度か機会があったが、「こういうものがある」と知っていればそれでいいとも思っているので、スルーしていた。でも、GPSを使い始めてから、見るのは義務であるような気がしていた。おもしろいものだ。
見たからどうだということはないけれど、「見たことがある」と言えるようになった。ついでに、憲政記念館前の道、いつもバイクや自転車で通っている道を歩いたということが嬉しかった。
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