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鬼峠・ニニウ・占冠のこと(1)
鬼峠・ニニウ・占冠のこと(2)の続き。

ニニウには、たしか1軒お住まいの方がいると記憶しているが、だれもが目にするのは廃校となった新入(ににう)小中学校と、サイクリングターミナルだろう。廃校というのはとても切ない場所なのだが、ここは廃校となった後はレクリエーション施設として長らく使用され、たしか2005年頃まではまだ活用されていたはずだ。そのため、生徒のおもかげというのはかなり薄れている。いつも見るだけだったのだが、遠からず倒壊してしまう可能性も高いだろうから…と写真に撮った。ところが、この秋にサイクリングターミナルともども解体予定と知った。

  正面の建物が校舎。右側、屋根が落ちている。右端は教員住宅だろうか。手前、校門にチェーンが渡してある。

校門の左の門柱には「占冠村立新入小学校」とある。右に見えるのは白樺の擬木というか張りぼて。以前、ある看板の支柱だったもの。右の門柱には「占冠村立新入中学校」とあるはず(撮ってない)。

校舎前には閉校記念碑がある。「われらここに育つ 1975.3.1 新入小中学校閉校記念」。この小中学校については、やはり鬼峠さんのサイトをぜひくまなくご覧いただきたい。鬼峠さんのサイト、とりわけ鬼峠フォーラムのレポートの数々は、私のブログを読んでくださる方にはとても染みいるものだと思う。

付近にはニニウキャンプ場があり、やはり営業していないと思っていたのだが、なんと今シーズンは営業していたとのこと。まったく気づかなかったのは、思い込みなのか不覚なのか。ウェブサイトまであったとは。次回は泊まろうと思う。

* * *

同サイト内で紹介されている、占冠で暮らした人々の記録を収録した『シリーズ北海道の女』(宮内令子著/北海タイムス刊)を入手した。これを見ると、占冠、そしてニニウの暮らしがどうだったかがとてもよくわかる。よくぞ証言を残してくれた。むさぼるように読んだ。




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鬼峠・ニニウ・占冠のこと(1)の続き。


2013年、久しぶりに現地に行ってみた。「鬼峠林道」はいままで入ったことがなかった。今回は230ccのバイクだったので気負いなく訪ねることができた。

現在の「峠」はこのあたり。右、ゲートの向こうは送電線。また、ここからすぐにゲートがあり、この先の南側で「初代鬼峠」と交差する部分には行けなかったが、雰囲気は十分に味わうことができた。いまのこの付近は比較的開けていて、印象としては明るい。それは、谷筋を上り下りするという峠道ではなく、トラバースするように登っていくからであろう。

* * *

さて、ここで3時代の地図を見比べよう。まずは大正8年測図のものに、3時代分のルートを重ねてみる。
  (クリックするとFlickrの大きな画像を表示します)

当時、鵡川沿いの赤岩青巌峡付近に道はない。中央から尾根に取りつき、そのまま峠を越えてニニウ側の尾根をつづら折りに降りてくる。ニニウには30戸近くの家屋が描かれている。

次いで昭和33年測量のもの。
  (クリックするとFlickrの大きな画像を表示します)

中央側の入口は北にずれ、かつての道を重ねると、谷筋を登るように地形が描き直された(かつての道はこの地図には載っていない)。送電線の点検に適するかのような位置に道がつけられている。ニニウ側は少し遠回り、ペンケニニウ川の上流に下っている。興味深いのは、その位置に家屋が描かれていることだ。また、学校も描かれている(別稿)。また、中央から赤岩までの道も開削されている。

この、二代目の道がペンケニニウ川のところに降りる部分は、現在このようになっている。
ちゃんと分岐はわかる。しかし、入るとすぐに、こうだ。

おそらく道の形はずっとあるだろうが、背丈ほどもある藪を漕いでいく気力もないので、まったく入らずに退散した。

なお、ペンケニニウ川に沿う道は、この少し先(北)でゲートで塞がれている。



以前はこれより先に行くこともできた。

1999年 道道夕張新得線(道道136号)


そして現在(平成3年修正)。
 
(クリックするとFlickrの大きな画像を表示します)

昭和33年測量のものと中央側の描き方が違うが、おそらく地形図にありがちな「いまのほうがより正確に描き直されただけ」だと推測する。抜本的改良がされるとは思えないこのような道が、全面的に、旧道のすぐ近くで微妙に線形を変えながら作られるとは思えないからだ。よって、実際は、鬼峠までの道は昭和33年測量のものと変わりがなかったものと考える。

ただし、道は鬼峠からニニウに向かうのではなく、いきなり南下して、赤岩青巌峡の北に降りてきてしまっている。この途中で、大正8年の図にある初代鬼峠と交差するはずだ。この頃になると、赤岩からニニウ、そして穂別への道が開通しているので、もはや鬼峠越えは本来の用途…中央とニニウを結ぶ道としての役割は終えていただろう。いまバイクやクルマで走れるのは、この道の、峠付近より東側である。峠より南は、冒頭の通りゲートがある。


(続く)
鬼峠・ニニウ・占冠のこと(1)
鬼峠・ニニウ・占冠のこと(3) 新入小学校と『シリーズ北海道の女』(宮内令子著)


北海道の占冠村に鬼峠という場所がある。名前からして、あまりにも魅力的ではないか。占冠に初めて興味を持ったのは小学生の時だ。鬼峠に興味を持ったのがいつかは忘れたが、2000年代前半に、鬼峠さんのサイトを見つけたときにはむさぼるように読んだ。このサイトはとにかくすべてを読んでほしい。「鬼峠フォーラム開催報告」すべてに至るまで、ぜひ。(サイト名は「北海道観光節」、ニニウの節は「ニニウのこれから」というタイトルだが、当時は「ニニウへ急げ」という節であったし、調べ、思い、書いているのは鬼峠氏であるということに敬意を表し、以下「鬼峠さんのサイト」と記載する。リンク先はそれぞれ異なる)

* * *

占冠はおもしろい場所で、ほぼ石狩川・空知川水系である上川総合振興局(上川支庁、といったほうが馴染みがあるかもしれない)にもかかわらず、この占冠村だけは鵡川水系で、村内を流れる川をたどると太平洋に出る。しかし、この村への道は鵡川を遡るのではなく、空知川水系である富良野盆地から山を越えて入ってこなければならなかった。鬼峠は、占冠の西、ニニウに至るために越える、さらにもうひとつの峠である。
 
(Kashmir3D+数値地図20万分の1+50mメッシュ標高データを使用)

 付近にはJR石勝線が走る。鉄道が通ると言われてニニウ入植した人が80年待って、ようやく開通した石勝線。しかし、ニニウには駅はできなかった。いまの清風山信号場のあたりである。写真は2005年。まだ道東道が工事中だ。

鬼峠の直下には、鬼峠トンネルがある。写真は東側坑口。保線の方がトンネル点検を終えて待避している。この「(上り)とかち」の前に下りの貨物列車が通過して行ったのだが、列車が坑口から飛び出す直前、霧の塊が吹き出してきた。山が持つ精気のようにも感じられ、はっきりいえば怖かった。

列車内から撮った、待避設備跡(下り=東向き方向)。石勝線開通時、このトンネル内には鬼峠信号場が設けられ、待避設備があった。しかし、通常のダイヤで使用されたことがあったのかはわからない。いまは廃止され、交換設備は撤去されている。

この部分、トンネルの幅が右側(南側)に広い。保線の方にうかがった話では、ここに休憩所があるという。鬼峠トンネルの点検は、歩いて往復8時間とのことだ。

  西側坑口。
* * *

さてこの、占冠市街(「中央」と呼ぶ)とニニウを結ぶ鬼峠は、地図上では2回、移転している。大正8年測図、昭和33年測量、平成3年修正の50000地形図を重ねると下記のようになる。1、2、3は、それぞれの時代の「鬼峠」だ。1は徒歩道、2は馬車道、3は車道だった。ニニウに中央からの車道がついたのは昭和35年だ。
 (クリックするとFlickrの大きな画像が表示されます。青=T8、緑=S33、茶=H3。3図とも等高線等がかなり異なるのは、仕様です)

鬼峠さんのサイトによれば、1以前に草分け道があり、1は明治44年から大正初期、2は昭和3~4年、3は昭和35年に開通している。いまは3の道を途中までたどれるのみ。代わりに、鵡川に沿った道道136号夕張・新得線が整備されている。この道はいまだに全通していないのだが(両側とも行き止まりまで、1990年代末に行っている)、道東道開通に伴い、この部分は驚くほどに整備されたが、それは後述する。


(続く)

鬼峠・ニニウ・占冠のこと(2)
鬼峠・ニニウ・占冠のこと(3) 新入小学校と『シリーズ北海道の女』(宮内令子著)
国道229号は改良に次ぐ改良がなされた道路である。兜トンネル・茂岩トンネル(廃)こ北、ここ弁財澗も、かつては崖をへつった地形に沿った道、その次は岬部分をトンネルで貫き、そして今は写真のように大きな橋(弁財澗<べんざいま>大橋)で入江を一またぎしている。ここに廃道があるのは見えるので、立ち寄ってみた。
(施設名参考:『旧道探索』


このように廃隧道が見える。よく見ると、左側にも道跡が見える。

確かに、左にある。塞がれた廃隧道よりも、すでにそちらに気を取られた。この廃隧道、扁額が剥がされているが、名を弁財トンネルという。

弁財トンネルから左に入ると、強烈なコントラストの下、廃橋があった。銘板はないが、この橋は弁財ば橋という。その右側が異様な雰囲気を持っていた(参考:『愛郷かもえない』神恵内村発行/PDFはこちら)。そのまま進む。

すこし、せり出している。片洞門だ。

いや、「少し」ではない。ものすごく、貼り出している。そしてその先には、ごく短い隧道がある。

これをくぐったところで、なにもなかった。旧旧道は、現道を作る際に潰されていて、行き止まりというか、どこにも行きようがない。

振り返っての帰り道。廃橋から海を見下ろしたら、そこは見事な「澗」であった。かつてはここに船を着け、ここを生け簀のようにつかったのだろう。


旧旧道を出て旧道の弁財トンネル前に出ると、廃道は両端を少しずつ狭めて、夏らしい雰囲気をもってそこにたたずんでいた。




菅橋(長野県)木曽谷初のRCアーチ橋の続き。


すぐ近くに、菅橋の新道と思われる橋があった跡がある。


桁はないが、親柱はある。右岸側だけ、写真を撮った。左は「昭和四十年三月竣工」、右は「しんすげばし」。「ばし」と濁るのは珍しい。


この新菅橋は、PC箱桁橋だった。あろうことか、1989年にPC鋼線の腐食が原因で落橋している。竣工からわずかに24年だ。こちらのサイトに落橋時の写真があり、ダンプカーが天を向いている。幸い、死者は出なかったようだ。
独立行政法人土木研究所 構造物メンテナンス研究センター

また、こちらのサイトでは、岐阜県の落橋例とともに、同じ建設会社による杜撰な建設事例として書かれている。
長 尚(ちょうたかし)のホームページ 橋梁長寿命化修繕計画考

どうも、悪い事例として有名な橋のようだ。


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