階段部分に銘板があった。拡大する。 設計 四国総局 施行 大阪土木工業株式会社 設計荷重 500kg/m^2 着手 昭和52年11月11日 しゅん功 昭和53年2月8日 銘板は、いろいろ教えてくれる。 PR こうして比べると、時代によって跨線橋というか公共の通路への考え方の違いがあることがよくわかる。国鉄時代の跨線橋というのは単なる通路であって、客は一刻も早くその場から逃げ出したい空間だが、最新の通路は少しでも長くそこにいてもらう場所、いやそれだと誤解を招くな、またそこを利用してもいいと思わせる空間である。 当初、階段は大宮側のみだったものの、のちに高崎側にも増設されている。 跨線橋の桁は、古レールを使用したワーレントラスだ。 ●左 施工 株式会社植木組 概要 跨線橋 階段部 鋼造一部木造 (亜鉛メッキ仕上) 福音3.0m 2箇所 しゅん功 昭和58年3月 ●右 施工 株式会社植木組 概要 階段 鉄骨古レール造 巾員3.0m 2ヶ所 (ペイント塗装4回塗り) 基礎 鉄筋コンクリート造 鉄筋コンクリート抗Φ=300mm ℓ=90m 8本 しゅん功 昭和44年7月 また、下りホームの脚の根元にも、銘板があった。 施工 (株)植木組 概要 階段 鉄骨古レール造 巾員3.0m・16.6m (ペイント塗装4回塗り) 基礎 鉄筋コンクリート造 鉄筋コンクリート抗Φ=300mm ℓ=9.0m 16本 しゅん功 昭和44年7月 これらの「しゅん功」は、更新年月と見ていいだろう。 駅舎。かつては茶色系統で塗装されていた。 橋上駅舎化されているが、そのための南北自由通路は別に設けられているので跨線橋は駅舎とホーム間を移動する手段として残されている。しかもエレベーターも併設されて。 内部は化粧板、窓はアルミサッシ、天井はコルゲート。その内側には配線の配管がむきだし。「ここにずっといたい」「ここで待ち合わせをしたい」とはあまり思わないだろうなと思う空間。それが残されてしまう空間が、跨線橋。 それにしても、配管。鉄道駅の配線配管の多さは異様だ。ここでは数えられるくらいだが、地下鉄になると数十本が平行していたりする。 ホーム上屋のない時代の籠原駅の写真など、どこかに載っていないだろうか。 |
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