信越本線大久保隧道(新潟県柏崎市)のすぐ東側に、アンダーパスがある。かつて近くに親戚宅があり、子供の頃、このトンネルはクルマでよく通っていた。いとこたちと「アートンネル」と呼んでいた。トンネルに入ると「アー」と叫ぶという、子供じみた、楽しいルールがあった。 子供心に、両側の入口の形が異なるのが不思議だった。海側はボックスカルバート、山側は半円のコルゲートである。改めて現地を歩くと、やっぱりおかしな構造だった。 海側から突っ込んだ図。ほぼ水平に信越本線の下をくぐり、ガードのようなものがあり、そこから急坂を登る。急坂の上には半円のコルゲート。 カルバートには銘板がある。
まず「ガードのようなもの」。この上に線路が敷かれているかと思いきや、下の写真のようにかなりの角度がついている。こんなカントがあったら恐ろしい。複線の線路はカルバートの上に敷かれており、この「ガードのようなもの」は蓋をしてあるだけのように見える。 山側から見る。かなりの急坂だ。もちろん1車線分しかない。「ガードのようなもの」の蓋感もよくわかる。 さて、下の写真を見ると、コルゲートの横に古レールの柵があり、その前に道路がある。少し引いて見る。 これは、アンダーパス化する前は踏切だった「旧道」なのではないだろうか。とはいえ、古い空中写真を見ても明瞭には見えない。周囲に人もいなかったので尋ねることもできなかったが、間違いないだろう。 写真右側、カーブミラーの左に石碑が写っている。 與助道路(与助道路)。石碑の裏には「寄贈者 五十嵐與助氏/工事完了 昭和十七年六月/柏崎市」とだけあって、謂われは書いていなかった。先の柏崎市のサイトを見ても、昭和17年6月5日に与助道路完工式が行われたことを知るのみであるが、検索して驚いた。五十嵐冷蔵の創始者だったのだ。 五十嵐冷蔵といえば、雪をかぶった「50」という数字を描いたトラックで有名である。有名だよな。少なくとも私の友人たちは知っているくらいには有名だ。この近くには国立療養所があり、それができたときに(当時は陸軍療養所)迂回するための長さ4km、道幅4mの道を、五十嵐与助が私財を投じて作った道がこれだというのだ。 要するに、地元では、市史の年表や石碑の裏に「五十嵐与助は云々」と書く必要がないほどに有名な人だということかもしれない。五十嵐与助については五十嵐冷蔵のサイトに詳しい。惚れた。 ●参考 柏崎原子力広報センター(PDF) 道路イベントがあるなら、ぜひそこで発表したいくらいの話だ。 この與助道路、国道8号までぜひ歩いて欲しい。タイムスリップしたかのような茅葺き屋根の家、沼地、廃墟と化したグリーンピアなど、柏崎の市街地からそう離れていないのに、驚くべき景色が展開する。ぜひ。 ・あわせてどうぞ 番神架道橋・番神トンネル 橋なのかトンネルなのか PR |
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