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津軽半島を周回する国道は、三厩から西はR339、東はR280。まさにその場所に、東日本フェリーの痕跡があった。

 
三厩と福島を結ぶ航路は、Wikipediaによれば、1965年-1983年・1987年・1989年-1992年・1998年に運航していたようだ。三福航路と呼称していたようだ。現役のタイミングではここに来ていないので、見ていない。

手元のJR時刻表1991年8月号によれば、7月1日~8月31日の運航で、
三厩 福島
  950←  750
1020→1220
1450←1250
1520→1720
という1日2往復。2等800円、クルマ4m9400円、5m11800円。

 
そこでであった年配の方に、当時の話を振ってみた。「でかい船がきててなあ。港も整備したんだ。いまも三厩港の施設はあるよ」。しかし、現地に行っても、建屋などはなかった。

 
すぐ向かいには、国道の境目。実は、国道280号はここから函館までは「海上国道」となる。

そのあたりの経緯はサイト『山さ行がねが』に詳しい。


■関連項目
大畑港のいま














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新潟の「裏の浜」(私の個人的な呼称)、日和山浜沖で作業していた起重機船。本間組の押航式全旋回起重機船「にいがた401」だ。

突堤の先端の枠?の中から、砕石、おそらくテトラポッドの破片を浚渫している。(こんな突堤、あったかな…)

 
だばあ。




 

(以下、1981~1983年ころの情景としてお読みください)

佐渡は、毎日のように「裏の浜」で見えていた。当然、佐渡汽船も常に視界の中にいた。佐渡汽船のりばまで徒歩圏内(隣の校区)だったし、信濃川べりはよく行っていた。

ぼくが子供の頃は、佐渡汽船はさまざまな大きさのフェリーを運航しており、たしか大きな船は「おとめ丸」と「こがね丸」、そして小学校6年生のときには大きな「こさど丸」が就航した。当時直江津航路にいた「おおさど丸」より「こさど丸」のほうが大きいのは、なんだかファニィな感じがした。

そんな中、もっとも好きなのは、ちんまりした「さど丸」だった。大型の「おとめ丸」「こがね丸」に対して、こんな小さな船も混ざるのか。東京の電車で例えて言えば、10両編成の電車が行き交うのに、なぜか当該列車だけ4両編成、みたいな感じか。京急か。

 
その「さど丸」は、確かヨコに「新潟-赤泊」と書いてあった気がする。もう佐渡航路には入っていなかったような。あくまでも記憶ですが。その「さど丸」も、いつしか新潟港から姿を消した。寺泊~赤泊の両泊航路に転配されたのだ。以降、ぼくもあまり気にかけなくなった。


その「さど丸」の模型が、佐渡汽船ターミナルで展示されていたので見に行った。11月末まで転じされている。

 
総トン数599.7トンというが、のちに1200トン級に改造されている。といっても計算方法というか、甲板の考え方の変更なのか。

 
佐渡汽船初のカーフェリー。

 
この公式写真は、小学校6年生のときの佐渡への修学旅行の際にもらった佐渡汽船のパンフレットの裏にも載っていた。

 
「ときわ丸」の模型と「ときわ丸」。

●「さど丸」に関するサイト
・インドネシアで現役の「さど丸」の写真
https://journals.worldnomads.com/merantau/photo/11011/870089/Indonesia/Ferry-heading-to-Padangbai-from-Lembar

・「さど丸」を含む各船舶の「その後」




●関連項目
佐渡汽船 ときわ丸 車輌甲板のディテール
佐渡汽船 おとめ丸のディテール
ツーリングトレイン釧路/ツーリングトレイン根室の前後の話。

 
1995年7月28日(金)。まだ銀座にあった会社を定時で退社していったん目白台のアパートに帰宅し、20時20分頃、TT250Rに大きな荷物をくくりつけて出発。会社のすぐそば、晴海通りを有明のフェリーターミナルに向かった。まだ晴海大橋も豊洲大橋もなく、晴海通りを南東に向かうと3車線が左折となり、ホテル浦島をかすめて春海橋経由で回り込んでフェリーターミナルへ。

その途中の交差点でZRXに乗った人となんとなく挨拶し、偶然にも帰りも同じフェリーになるのだが、これが今にいたるまで続くバイク仲間ができるきっかけとなった。

 
乗船手続きを済ますと、この紙をもらった。出港は23時30分。2泊3日、所要30時間。今回はB寝台を奢った。

 
船は、さんふらわあえりも。苫小牧着は7月30日(日)の朝5時30分。雨が降っていた。

 
 
A4両面の、ブルーハイウェイラインのパンフレット。

* * *

帰りは、近海郵船の釧路東京航路。
 
フェリーの乗船券は見当たらないが、バイクにくくりつける航送票があった。1泊2日だが30時間近い所要時間だったと思う。釧路東京間のフェリー、復活してほしい。。

 
 
5ツ折両面カラーの近海郵船のパンフレット。

 
2002年のゴールデンウイークは、ロシアンラリーの取材だった。この年まで新潟港出港。私にとっては実家からすぐのところであり、とてもありがたかった。

バイクとともに乗っていく船は、ロシアのОЛЬГА САДОВСКАЯ(OLGA SADOVSKAYA)。伏木から新潟経由でナホトカに向かう。船上には中古車がびっしり。これをロシアに運ぶ。ナホトカの港には、車体を前後でぶったぎったクルマが多数置いてあり、これは「部品」として輸入したものを組み立てて売るものだと聞いた。残念ながら、仕事で、かつポジフィルム本数に限りのあるものだったため、そうした、誌面では使わない写真は撮っていない。


接岸は新潟の臨港埠頭。バイクは、20フィートコンテナに3台ずつ固定して、リンコーコーポレーションの50トンクレーン、IHI CTH500が吊り上げる。右端が私のXTZ750スーパーテネレ。タイヤはT63。

 
このように。


当時はまったく気にしなかったが、数年前、「出国印マニア」の方にこの出国印を見せたら驚かれた。新潟空港から出国する人は多いが、新潟港からは、普通の人は出国できない。新潟空港の出国印は「NIIGATA A.P.」だが、新潟港からは「NIIGATA」となる。

出入国管理統計を見ると、2017年には2282人が出入国しているが、入国者2274人(日本人1499人、外国人775人)に比べ、出国者は8人(日本人0人、外国人8人)しかいない。つまり、昨年はこの出国印を得た日本人はゼロだ。そう考えると、とても貴重なものに見える。

 
船上では、このように固定されている。屋根付き、まったくもって厚遇だ。船内にはもちろんロシア人もおり、食事もいっしょだ。レストランでは、まがまがしい色のぽそぽそしたケーキが出たりした。

船内は4人1部屋。私は東福寺保雄さんと川崎智之さんと同じ部屋。雲の上のトップライダーだが、これは仕事ゆえの役得。

 
これは帰り。魚眼レンズで撮影。






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