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山手線/地形散歩(3)駒込-田端の続き。

田端トンネルを見た後、線路を見下ろすことはできなくなる。そのままおとなしく田端駅へ向かう。


大きな地図で見る

田端駅北口には、2本の橋が並行して架かっている。駅寄りの「田端大橋」(二代目と、車道の「新田端大橋」(三代目)である。田端大橋のほうがもちろん古く、震災復興橋ではないにしろ、震災後の東京都市計画道路のひとつとしてここに橋が架けられた。設計者は稲葉権兵衛。当時の橋梁界を率いていた田中豊門下生である。稲葉は、有名な昭和通り架道橋や総武本線隅田川橋梁にも関わっている。この田端大橋は非常にスレンダーな形をしているのだが、それは後述する。


20101006-01.JPGさて、これが現在の田端駅北口から東を見た光景。この歩道橋が田端大橋だ。1935(昭和10)年に架設されたものを改修したものには見えないだろう。化粧タイルに植栽、ありがちな欄干。しかし、中身は75年前の桁であり、歴史的鋼橋集覧にも収録されている。

上の写真でひときわ目を引くのが、画面上部の白いPC桁の下路橋だ。これは新幹線。この日は曇り空だったので、悪目立ちしないように白く塗られているのかもしれないと思った。もし、田端大橋をスレンダーに仕上げた稲葉権兵衛なら、あるいはその指導をした田中豊なら、どんな橋を架けていただろうか。目立たないよう、重量感を感じさせぬよう、桁の天地寸を細くして6主桁とかにして上路橋にするなどの方策をとったのではないか。



さてこの田端大橋。残念なことばかりだ。まず名称。

20101006-07.JPG
田端ふれあい橋。

西側(駅舎側)の左右に立つ親柱に、そう書いてある。しかし、そのすぐ右、欄干端部には
田端大橋

と記されている。どっちが正式名称なんだ? なお、東側には「田端ふれあい橋」としか書いていない。

次に残念なのがこれ。
20101006-02.JPGありがちな、

鐘。

得てして「○○すると幸せになれる」「恋が成就する」等の、作られた「いわく」が主張するような鐘になりがち。そして、かなり浮ついた名前がつく。

この鐘も例に漏れず

希望の鐘

だそうだ。

鐘って必要なの?

















この橋の欄干では、おそらく鉄道を見るために設けたのだろう、透明な窓がある。しかし、その位置が恐ろしく間抜けだ。
20101006-05.JPG見下ろすと、真下には保線用のモーターカーが止まり、その先には機関庫がある。普通は山手線や京浜東北線の電車、あるいは貨物列車を見るんじゃないのか?





もうひとつ。
20101006-03.JPG貨物列車が見えるように撮っているが、この窓の真下は駐車場だ。

私が見て「ここが透明の窓だったらいいのに」と思う場所はすべて植栽になっている。本当に残念。

20101006-04.JPG橋の上に、旧橋の親柱が保存されている。横には田端大橋がいかに素晴らしいものであるかを喧伝する文章がある。どうせなら、親柱は元の位置に置いておいてくれよ!


この田端大橋は、東京都市計画道路の一部として計画された、ゲルバー・プレートガーダーである。設計者は鉄道大臣官房研究所第四科橋梁の設計、稲葉権兵衛であるのは先述したとおり。道路の高さを下げ、なおかつ線路からのクリアランスを確保するため、薄い鈑桁で構成している。そして、これが田端大橋の最大の特徴なのだが、全溶接なのである。

昭和一桁というのは溶接がまだ試行錯誤だった時代。溶接艦船が真っ二つに折れたのはどの年だったか。田端大橋を設計した稲葉自身、『土木学会誌』第二十五巻第十二号(昭和14年12月)において
鉄道橋の熔接は鋼構造物の熔接の最後に来るべき完成として可い
と書いているくらい、「鉄道」の「橋」を溶接で作るのは困難だった。そんななか、いわば実験的に、この田端大橋を溶接で作り上げた。また、横桁も左右の主桁を結ぶだけではなく、さらに外側に張り出す形で歩道の空間を作り出している。つまり断面は「十十」となっていて、中央部(H型の横棒部分)が車道、左右に張り出した部分が歩道。「十」の、横棒より上が桁、下が橋脚である。中井祐は『近代日本の橋梁デザイン』の中で、このデザインの目的を「鉄道から見ると、桁が奥に引っ込んでいるので見かけ上、スリムに見える」(要約)という説を唱えている。なるほど。

ところが、現在の田端大橋では、路面側に主桁が見あたらない。主桁を撤去できるわけもないので、上げ底になっているのではないかと思って検索したら、ありましたよ、改修工事の内容が。

『歴史的鋼橋の保存技術に関する研究』(永田礼子)の3ページ目。主桁の上に、橋幅いっぱいの床版を新たに設置している。完全な上げ底橋。なんてバカな補修をするのだ。「歴史的に親しまれてきた橋」として保存するのだから、主桁を隠しちゃだめだろ! タイル張りでレトロ感出すよりも、55年前に作られた鋼鉄製の主桁を見せた方がいいだろ、本物なんだから!

なお、この卒論は、私がちょっとアレだと思っている佐々木葉の研究室のものらしい。佐々木氏についてはこちらを参照。しかし、卒論執筆者および内容と、佐々木氏のアレ具合はまったく無関係である。



『土木学会誌』第二十一巻第五号(昭和10年5月)に、稲葉自身が書いたこの橋の解説がある。その当時は「田端大橋」ではなく「江戸坂跨線道路橋」という名称となっている。「江戸坂」というのは、田端駅西にある田端アスカタワーの北を取り囲んでいる坂のことである。


参考:「山手線が渡る橋・くぐる橋」(高橋俊一)
『近代日本の橋梁デザイン』(中井祐)
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