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20110419-01.JPG『国鉄を企業にした男 片岡謌郎伝』(高坂盛彦著)に参考文献として挙げてあった、『人物国鉄百年』を入手した。刊行は昭和44年(1969年)9月7日で、その十数年前の旧著(詳細不明)の書き直し版である。版元は昨年倒産して各方面に影響が大きかった広告代理店、中央宣興出版局である。

著者の青木槐三(明治30年<1897年>~昭和52年<1977年>)は片岡謌郎と深い親交を持つ人物で、毎日新聞の鉄道担当記者を経てほうぼうへ首を突っ込み、国鉄の社外取締役のような存在になった男である(国鉄に「取締役」などない、というツッコミはナシで)。仙石貢から直接話を聞くような立場だった上に十河信二や島秀雄らとも親しいほど鉄道史に精通しており、いま世の中に流布している「鉄道裏話」の出所は実は青木槐三が聞き取った話だった、というものも多くある。その青木が書いた「人物」の本である。入手して、巻末に付された人名索引を見るだけで心躍る。

20110419-04.JPG大隈重信のような鉄道を導入した人、大河戸宗治や太田圓三のような土木技術者が見える。そう、この本がスポットを当てている人物とは、萩原良彦や壇上完爾が描く、無名の「現場の人」ではなく、幹部クラスの人物なのだ。

鉄道趣味的にスポットが当たる幹部といえば、車両技術系の島安次郎-朝倉希一-島秀雄、あるいは国鉄総裁系くらいなもので、その下、次官クラス、あるいは局長クラスはなかなかスポットが当たらない。任官の順番すら定かでないような人物群だからこそ、発掘していく楽しみがある。

読めば読むほどに、明治から昭和の鉄道人というか官界は、大学卒のごく一部の幹部社員が仕切っているというのがよくわかる。鉄道に入るとまず中央で下積み。次いで地方の偉いポストに就き、30歳前で本社に戻ってあとは着々と階段を上っていく。ひとかどの人物となってから亡くなると「○○伝」のような、私家版だと思うが伝記が刊行される。それはそれで、後年の貴重な資料となる。




本書は人物像を描いた本だ。勢い、人物の特徴を浮かび上がらせ、それに沿った話となる。雷親父のような人物や、親分肌の人物は絵になりやすい。だから、多少の誇張もある。場合によっては誤りもあるかもしれない。でもそれでもいいのだ。青木はこう書いている。
山陽鉄道のことは営業については渡辺金吾翁にきいておいた。(略)運転のことは結城弘毅に聞いた。(略)自分の生まれていない前のことはきき書が正しいかどうかは知らないが、史実を書くわけではないからそのまま書いていく。(下線部は磯部)
渡辺は山陽の経営陣で赤帽や連絡線を作った人物、結城弘毅は特急「つばめ」や「あじあ」を「作った」人物である。

この記述の姿勢はとても大切である。なぜならば、史実即ち異常事態だけ描いていたら、事件事件事件事件になってしまううえ、経営側からの歴史観しか残らない。それに対して、史実でない部分には日常が詰まっているわけで、そこには働く側、利用する側からの歴史観が存在しているので、それを汲み取る意義はとても大きい。

たとえば、こんな記述がある。「電車の誕生」という一節である。大正3年(1914年)12月18日、京浜間で電車の運転が始まった当日、その開業式でのことである。試運転もほとんどせずに営業開始したため、架線の張り方は不適切、道床は沈み、パンタローラーが離線し、貴族院や衆議院の面々を乗せた記念列車が立ち往生してしまったのだ。
此の立ち往生事件は一般にはパンタローラーが架線をはずれて動かなかったと一口に片付けられているが、(略)この大事故が鉄道五十年史の年報にも、昭和三十七年の国鉄年表にも一行も掲載されていない。だからこの日から電車が運転しつづけたと世人は思ってしまう。
此の京浜線電車事故は一日名士を乗せて立ち往生した失態で止ったのでは無くて、到底このまま電車運転を続ける自信が無くなり遂に二十六日電車運転を中止(略)五カ月の長きに及び五月の十日に至って再開し今日に至っているのである。(下線部磯部)
こんなことがあるから、史実だけを追ってはいけないのだ。この事故の始末としては、鉄道院総裁の仙石は謝罪広告を出し、技監は廃止され、技監だった石丸重美(狭軌派として悪名?高い)も更迭されてしまった。この、史実には乗らない事実はwikipediaの東海道本線の項目にも「東京駅 - 高島町駅間の電車運転(京浜電車、現在の京浜東北線)開始」としか掲載されていない。


20110419-02.JPGこのように、2段組になっている。体裁は新書判。




本書の中から二つ、気になる記述を拾う。まずは九州鉄道のくだりである。
ルムシュッテル(略)のつくったドイツの匂いを、九鉄局の何処かに探してみようと思うが見つからない。レールや付属品はドイツのドルモンドユニオン会社に註文しているから、博多-久留米間をさがしたら、跨線橋の柱ぐらいに残っているかもしれない。
いまや古レール研究は愛好者もたくさんいて、私ですらウニオンくらいは知っている(UNION製のレール参照)。それは、趣味界が膨大な時間を積み重ねたからこそ広く知られるようになったものであって、本書が書かれた昭和40年代前半では、まだまだそのような認識はなかったのだろう。



同じく九州鉄道のくだりで、なんと三島通庸の名前が出てくる。
九鉄は(略)小倉方面を馬場兼が担当した。(略)馬場は大蔵大臣をやった馬場鍈一の父で、土木知事三島通庸の下で土木課長をやったので知られている。(下線部は磯部)
三島通庸関係文書に「栃木県土木課員」とあるのはその一部だろう。


このような形で、さまざまな人物を採り上げていく。基本的には営業の話である。技術の話はほとんどない。久保田敬一にしても、鉄道次官などとしての活躍であり、私がしょっちゅう引用している橋梁の論文などは触れていない。土木畑の人がそちらで評価されない風潮は、いまに始まったものではないという証だ。

青木の他の著書もさがして読んでみようと思う。いま、鉄道官僚の系譜図を少しずつ作っているが、おもしろい鉄道史が見えてくる気がする。壮大な構想ではある。
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