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上淀川橋梁(東海道貨物線) その2で課題としていた「2回目のルート変更時期」について書く。ヒントをいただいた@Einshaltさん、@O_Ken_ken さんに感謝申し上げる。

周辺の地図を再掲する。
a7c00c36.jpg左図で、黄色いルートが開通したのは1901年(明治34年)8月。問題は赤いルートから現在線に移設された年である。

●1912年説

典拠は 『地形図でたどる鉄道史 西日本編』(今尾恵介、JTBパブリッシング、2000年)と、『歴史的鋼橋集覧』の「上神崎川」のページ(土木学会)である。

前者には「神崎川橋梁前後の線路が大正元年(1912)に付け替えられていた」(65ページ)と記載され、後者には「開通年月日 1912年」とある。前者が後者を参照した可能性はある。


●1913年説

典拠は『鉄道廃線跡を歩くVIII』(宮脇俊三編、JTBパブリッシング、2001年)だ。これには誤記があるので、明記しておく。

東淀川◎吹田~新大阪 T02.10.25 複線 曲線改良 上神崎川B新設

「東淀川」は位置からして明確な誤りだが、「新大阪」は逡巡の結果か。改良当時には、当然のことながら存在していないが、かといって「大阪」と書くと、橋梁ごとまたまた付け替えたのか? という余計な憶測を生む。これでいいと思う。

ここでいう「上神崎B」というのは現在の上神崎川橋梁下り内外線で、前述の通り「歴史的鋼橋集覧」では1912年開通、とある。

『鉄道廃線跡を歩くVIII』に付された「全国線路変更区間一覧」は非常に有用な資料である。「線路変更区間の選定基準」という凡例を設けていることを見れば、ご納得いただけると思う。



1912年か、1913年か。果たしてどちらが正しいのか。『停車場一覧』(JTB)を見ても書いていない。『日本鉄道旅行地図帳』(新潮社)にも、この経路変更はまったく採り上げられていない。ちょっと残念だが、どちらも「何らかの基準」があり、それに満たなかったのであろう。


引き続き「1912年か、1913年か」の情報を探し続けたい。

なお『日本国有鉄道百年史』には、この件に関する記述はない。

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しつこくアドベンチャーブリッジ(栃木県)宇都宮での収穫・天測点の続きである。



なんだかおかしい地図だ。栃木県庁がある敷地内、北側に道路の切れ端があり、西側には隧道坑門まである。「写真」に切り替えて表示されるのが建て替え前の旧庁舎であるため、南側のロータリーなどは「地図」と「写真」で異なる。坑門が表示されるのに気づいたのはついさっきのため、訪問時にはその確認などしていない。

この西側の道路、県道64号には「トンネル通り」という名称がつけられていた。
20110114-1.jpgトンネルはと言えば、こんな具合だ。
20110114-2.jpg見ての通りこの塙田トンネルは新しい。なぜここにトンネルを掘ったのかと言えば、おそらく防災上の観点に違いない。庁舎の3面にしか道がなく、そのうち1面は狭い道である。拡幅するのもわかる(昭和49年度の航空写真から推測)。

この右手、蒲生神社表参道を上り、墓地を通り抜けるとアドベンチャーブリッジ(栃木県)にあたるのだが、その墓地で初めて知ったことがあった。

多くの墓に「○○家奥津城」と書いてあるのだ。そして東京の谷中墓地の如く、被葬者の縁を記念として石碑に彫ったものも無数にあった。「奥津城」は「おくつき」と読み、要するに神道の墓である。お墓なので写真に撮ってはいない。なんとなく。時系列でいえば、この後アドベンチャーブリッジ→駅へ戻った。


そろそろ橋の話に復帰せねば。
アドベンチャーブリッジ(栃木県)を見て宇都宮駅に戻ろうとしていたところ、丘があったので上がった人がいた。つられて上がってみたら、そこに一等三角点があった。
20110112-01.JPG.
地形図など見ていなかったので、まさかこんなところ(失礼)に一等三角点があるとは思わなかった。いま改めて見ると、たしかにある。
20110112map.JPG余談になるが、この切り出した部分に「博物館」(2002年制定)「老人ホーム」(2006年制定)の地図記号がある。初めて見た気がする。

その横に、コンクリートの門柱みたいなものがあった。
20110112-02.JPG天測点。「第一六号天測点 地理調査所」という銘板がついている。「地理調査所」とは内務省→建設省の下部組織で、1960年に国土地理院となったものである。

サイト「一等三角点探訪」やサイト「オフィス地図豆」などを拝見すると、どうやら最初に全国で48点の天測点、すなわち天文測量をするための基準点が定められ、この八幡山は18号ということになったが、その後、いくつかが廃止されてため、「一六号」に変更されたようだ。後者のサイトに出てくる「カールバンベルヒ製70mm子午儀」は『地図の科学』(山岡光治著)に写真が掲載されている。

天測点とは、その名称からして目的も類推できるわけだが、それを見たのが初めてどころか存在を知ったのも初めてだった。wikipediaに記事がないのが不思議なくらいに感じるが、そんなに重要ではないのだろうか?

単なる腹ごなしの散歩だったつもりが、めいっぱい楽しい発見が多い散策になった。とても嬉しい。

20101230-07.JPG

先日、駅改築による駅前広場の出現というポストで、鉄道路線の高架化で駅舎が改築され、さまざまなものが失われたことの例を、小松駅、東舞鶴駅、西舞鶴駅について書いたが、ここ糸魚川駅もまたそうなる予定である。しかし、いまはまだ、駅が駅らしい存在感を持っている。率直に言って、その存在感に驚いた。糸魚川駅と言えば、駅裏(あえて「裏」という)にあった煉瓦造りの矩形機関庫が取り壊されたことが話題に上るが、私はそっちよりも表側に関心を持った。

1957年(昭和32年)に改築されたという現駅舎は、向かって左手、分度器みたいな屋根の下が待合室。その右、白飛びしている3枚のドアがコンコース。ドアを直進すると改札口だ。そこから右すべては運営側の施設。向かって左手にコンビニが続いているが、基本的には国鉄時代と変わらぬレイアウトだ。

待合室にはイスがたくさんあり、列車を待つ人がいる。地元らしい、長ズボンに黒いゴム長靴を履いたおじさんもいれば、時節柄(訪ねたのは12月29日)帰省客もいる。中学生や高校生もたむろしている。

駅というのは人が集まる場所である。いつまでいてもいいような、でも監視の目もある公共の場。そんな場所だから、鋳鋼製中高生が帰らずにだらだら話をしていても、とくに嫌な光景にはならない。一方、先日書いたような高架駅では人々がとりつく島がなく、監視の目もあってないがどときなので、非常に嫌な光景になる。そんな意味で、この糸魚川駅は昔ながらの構造が非常に好もしい空間を作り上げていた。


駅前に出た。真正面を見る。
20101230-10.JPGこの真正面の道路を真っ直ぐ先に見えているのは日本海だ。そして、その直線道路の両側には、雁木のある商店会。それも、シャッター商店街ではなく、店店に明かりが灯っている。

駅前のタクシーはほどほど。こぢんまりしたタクシープールがちょうど駅の規模にあっているように見える。

左にカメラを振る。
20101230-12.JPG

駅前に書店があり、ホテルがあり、地元の旅行会社がある。それらが現役であることのうれしさ。さらに左には、アヤシゲな店が入る雑居ビル。その店も現役。

右に振る。
20101230-11.JPG

駅前ロータリーにありがちな標柱と、その向こうにはラーメン屋やら駅弁屋やらが、変にこぎれいにならずに築数十年の建物で営業している。

これをさらに右に振ると「ヒスイ王国館」というテナントビル(?)があり、ヒスイやお土産を売っていたり、いくつかの飲食店が入っていたりする。いなかびていて、とてもいい雰囲気だった。

上の写真で「ラーメンとん太」の看板が出ているのは駅前旅館だ。
20101230-02.jpg写真左の白い建物は建設会社兼県議会議員の事務所だった。いい感じじゃないですか?

こうした雁木のある駅前商店街は、柏崎や六日町、十日町にもある。たぶん、ほかにもいっぱいある。

20101230-03.jpg糸魚川がいいなと思ったのは、こうした商店街がみな営業しているということだ。昭和50年代かと思うような玩具店が2軒もあり(左写真はそのうち比較的明るいほう)、洋服店やスーパー、ヒスイ店もあった。だいたい、奥でおばちゃんがちょこんと座って店番している。だから冷やかしで入るには勇気がいる店ばかりではあったが、地元の人たちはきっとそんなことは気にしていなくて、「ごめんください」と言って戸を開けて入っていくのだろう。

いま「戸」と書いたが、ドアではない。ほとんどの店は手動の引き戸。商店・住宅問わず、雪国では、ドアではなく引き戸が多い。ドアは外側に開くため、もし雪がドアの前に積もると開かなくなってしまうのだ。私の実家の玄関も引き戸だが、それでも雪が吹き付けると開きづらくなったものだ。

こうした商店街が残っているのは近くに大規模スーパーがないからなのか。上越市か富山市にはでっかいのがあるけれど。それくらいの距離感だからなのか。どこかそういう都市があった気がするけれど、思い出せない。


こんな糸魚川駅前が、再開発されてしまう。詳細はこちら(以下の画像はすべてそこから引用)。

現在、駅「裏」に建設が進む新幹線高架橋を中心に新しく橋上駅として作り直し、いまの駅舎は解体、その分駅前広場が広がるのだ。印象としては、例によって「駅が引っ込んだ」ものとなる。

「南口駅前広場」としてロータリーが描いてある部分、ここは民家が建っていた。それを潰してまで、駅前広場を設け、接続道路を造るのか。

かつての米原駅のように、新幹線ホームだけプラスしたような構造にすれば、いまの「駅前」の枠組みを変える必要もなく、街の表情を変える割合がかなり少ないのに。橋上駅舎化・高架化で、いま明かりが灯っている駅前商店は、間違いなく暗くなってしまうだろう。人が歩かなくなるからね。最初から、奥に引っ込んだ新駅に行ってしまう。

この糸魚川の雰囲気を感じることができるのもあと1~2年と思う。夏に再訪したいと思っている。

(2014年2月1日追記)

watanabejinさんが改築なった糸魚川駅と訪問されたレポートはこちら。駅前の雁木が! こういう変化の記録を個人ですべて残すことはできないけれど、連携すれば、何年後、何十年か後の人の役に立つのだろうなあと思う。
北陸新幹線糸魚川駅と煉瓦車庫 (糸魚川市大町)


(追記ここまで)



おまけのように跨線橋。
20101230-06.JPG古レールが使われたプラットトラスタイプ。

内部はこう。
20101230-05.JPG
小松駅が顕著だった。高架化されているのだが、あまりに駅前通りがガランとしている。貨物扱いや荷扱い、郵便扱いまでしていたかつての駅と異なり、旅客しか扱わなくなった駅は、改築される際にずいぶんとスリムになる傾向があると思う。よく、高架化で「町を分断している鉄道を高架にすることで、東西(←例)の交流のある街作りを進めます」みたいなことが謳われるが、大都市部でもない限りそれは幻想なんじゃないか。小松駅のような例を見るたびにそう思う。

かつての大きな駅は、旅客の他に、貨物や荷物、郵便も扱っていた。まだ、車両折り返し用の基地も併設していた。そのために広大なスペースを有していたのだが現在の駅は旅客しか扱わないので、その他の設備を撤去してしまった結果、駅前商店街の位置はそのままに、駅が引っ込んだ形になる。そうして、商店街と駅との間にだだっ広いスペースが生まれる。

とはいえ、小松は古い航空写真と見比べても顕著にわかるわけではない。訪れたときは土砂降りで写真撮る気にもならなかったし。そこで、東舞鶴駅と西舞鶴駅を見てみる。

●東舞鶴駅
20101224-03.JPGもっと広範囲に撮ればよかった。駅の周囲には広大なスペースがある。Googleマップを見てみよう。

大きな地図で見る


対して、昭和50年度の航空写真。
20101224-01.jpg(出典:国土画像情報閲覧システム
見よ、この西北側の変貌ぶりを。東南側の側線を。

西北側。
かつては貨物側線があった。そのスペースをベースにしていまの西口駅前ができた。元々あったロータリーがあった場所を近代化している。また、一部暗渠化と水路の付け替えが行われているようだ。

東南側。
こちらは貨物測線を撤去した後、広場になってしまった。高架化された駅の両側に広がっていがちな広場がかつての線路を撤去した痕跡であることの証左である。

●西舞鶴駅
20101224-04.JPGこの広大な空き地。これこそ、かつての国鉄主要駅の名残だ。

Googleマップではここ。

大きな地図で見る

対して、やはり昭和50年度の写真。
20101224-02.jpg(出典:国土画像情報閲覧システム
なんと大きな駅だろうか。Googleマップと比較すると、駅西側は貨物側線がそのまま駐車場になり、駅東側は同じく貨物側線が引っぱがされ、単なる空き地と化している。

なお、写真には、西舞鶴駅から東南に向かって180度の弧を描く専用線が描かれている。


これ以外にも福知山もなかなかすごかった。扇形庫まであったものが、すべて撤去された現在。ただし、Googleマップが提供する現在の航空写真は福知山駅改築中なので、ここに図示できないのが残念だ。




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