沢柳健一氏の『思い出の省線電車』と同じ系譜の、著者の体験記。「交通新聞社新書」にはいろいろな思いはあるが、こうした貴重な証言を商業出版物として刊行するのはとても有意義なことだと思う。応援したい。
著者は鉄道誌でもおなじみの、名古屋機関区OB。昭和4年生まれ、戦時下に国鉄に入り、促成栽培で機関助士に登用され、終戦を迎えるまでの体験を記した本だ。「戦火をくぐり抜けた汽車と少年」のサブタイトルどおり、著者の、14歳から17歳までの記録である。現在御年83歳、よくこれだけの記憶が…と驚く。 総じて、戦中の話である。本書の終盤では、同僚が空襲で殺されても、駅が炎上していても、命じられている仕事を黙々とこなしている川端氏と鉄道員たちが描かれている。宮脇俊三の『時刻表昭和史』に、玉音放送のあとも列車はいつも通り動いていたという記述があり、東京大空襲や広島の原爆投下の直後でも、市電は復旧してできるところから動き始めたというような記録があるが、おそらく、当時の「働くこと」の感覚というのはそういうものなのだろう。自分に与えられた仕事、しなければならない仕事のを、個人的な事情よりも優先する。それが当たり前の時代だったのだろう。失礼な憶測になるかもしれないが、個人が、与えられた労働を捨てて自分や家族を守りに走ってもほとんど意味をなさない時代、そして社会だったのかもしれない。『関東大震災と鉄道』(内田宗治著/新潮社)に描かれた鉄道員の姿とも重なる。 もしいま同様の状況になったとしても、現代人の常識では、仕事よりも自分や家族を優先するだろう。逃げる必要があるときは逃げるし、その仕事が危険だったとしても逃げる。それが許される時代、それを許す社会になった。 ただし、ひとつだけ苦言を。本書では、昭和20年8月15日に放心状態のようになった日本でも鉄道だけは動いていた、というような描写がなされるとともに、夜からは沿線の家々に明かりが灯っていた、ということも書かれている。その灯りは、誰が作りだしているのか? 鉄道がいつもどおりであることが世の中に安心感を与えたと書くならば、電力もまたそうではないか。電力は物体として目に見えないので、鉄道ほど身近ではないかもしれないが、戦時下に電力を確保することは鉄道業界と同じくらいに大変なことだったろう。そうしたことも配慮してあれば、なおよかった。 本書の帯には「蒸気機関車が学校だった」とある。これは、本書にも写真を提供しておられる大木茂氏の『汽罐車』に出てくる「旅は僕の学校だった」と呼応しているものだろう(写真はサインとともにいただいた言葉だが、きちんと本文に出てくる言葉だ)。大木氏と川端氏とは、川端氏の現役時代から親交があり、川端滋賀中央西線の最後の蒸気機関車列車を運転した際にキャブに同乗もしている間柄だ。 大木茂氏の写真展『汽罐車』でも、トークショーをご一緒されている。そのとき、川端氏は「機関士仲間と会っても、電気機関車に乗務するようになってからの話はいっさい出ない、蒸機の話ばかり」とおっしゃっていたが(本書のあとがきにもある)、戦後のこと、転換教育のこと、電機のこと、蒸機に戻ったこと、ご本人にとっては思い入れのないことでも、読者が渇望しているエピソードはたくさんあると思う。読者としては、ぜひ本書の続編をいくつも望みたい。 ●追記 本書に『鉄道精神の歌』というものが出てくる。youtubeにあった。 山田耕筰作曲。「国鉄国鉄国鉄国鉄…」すごい。原曲の著作権は切れている。 PR |
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