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ジェイ・ダイナーの思い出(100系カフェテリア編)
ジェイ・ダイナーの思い出(100系カフェテリア編 その2)
ジェイ・ダイナーの思い出(コーヒー編)の続き。

1990年代前半、東海道新幹線は「ひかり」が主役であり、東京と新大阪の間は3時間というのが常識だった。単純に、往復で6時間。2往復なら12時間だ。アルバイトとして考えれば1日に2往復すれば、倍、稼げる。このように、一度乗務して、東京帰着後に別の乗務行路に入ることを「着乗(ちゃくじょう)」と言っていた。

1往復後に泊まりの行路に入る「1往復半」、あるいは泊まり行路明けからもう1往復する「1往復半」をする人は多かったが、私は2往復を好んだ。あくまで、時給制のバイトだからである。2往復は4年間で62回やった。その大半は1992年度に集中している。乗務行路の関係で、1993年3月改正以降はあまりできなくなった。

一番多く乗ったのは、1992年3月改正での103A→108A→253A→284Aである。この組み合わせは、コーヒーで忙しい朝の下り、昼にかかって弁当がバカ売れする上り、ビールと弁当が売れる夕方の下りと、それぞれが満席で売上げが大きい列車で、A車ワゴンでは10万円売ることが目標だった。しかし、最後、夜の上りだけは、ガラガラのことが多かった。1日で売上げ20~30万、一方、バイト代は1万5000円くらい。なかなか会社に貢献していたと思う。

* * *

年末年始は時給が200円増しだった。バイトが確保できないからである。私は積極的に入り、1992年末から1993年始にかけて、こんなシフトを組んだことがある。

(12/29)夜の1往復 253A-284A
12/30 (睡眠3時間で)2往復 203A-78A-253A-284A
12/31 (睡眠3時間で)2往復 103A-108A-253A-284A
1/1 (睡眠5時間で)1往復 77A-114A
1/2 (睡眠5時間で)2往復 205A-6A-253A-284A(なぜかY編成)
1/3 (睡眠3時間で)2往復 203A-78A-253A-284A

稼ぎに稼いだけれど、フラフラだった。立っていても眠ってしまいそうになる。少しの休憩時間を見つけて、車販準備室などで居眠りをした。12月、1月ともに、バイト代は20万円を少し切るくらいまで稼いでいた。

* * *

前にも書いたが、この253A-284Aが大好きだった。1992年3月14日から1993年3月17日までの1年強、369日間運転されたはずだ。そのうち、253Aには73回、284Aには76回乗務している。5日に1回は乗ってい計算になる。

284Aはいつもガラガラの列車で、ダイヤ改正直後はカフェテリアの食材が大量に廃棄されていた。たしか4月に入ると見直されて、適切な数になったと思う。年末年始の乗客や売上げのメモが残っている。

12/29 バイト3人乗務、3人とも売上げ4桁
12/30 乗客数 新大阪~名古屋89人、名古屋~東京77人
12/31 乗客数 名古屋~東京70人

<関連事項>
ジェイ・ダイナーの思い出(0系Y編成・こだま編)
ジェイ・ダイナーの思い出(遅延の話)
ジェイ・ダイナーの思い出(100系11号車多目的室)
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廃止騒ぎが一段落したので「北斗星ニセコスキー」の写真を。

実は、初めて鉄道写真を撮ったのがこのとき。2003年1月。いや、それまではバイクの写真しか撮ったことがなかったんだけど、仕事がタフなので、まだ2月6日発売号(1月30日頃校了)の取材の内容すら決まっていないのに、逃避的に1月の3連休に「ぐるり北海道フリーきっぷ」で北海道に行った。

本当は、早暁の吹雪の中を走るキハ201の4灯狙いだった。もちろんそれは撮って、日が昇ってからうろうろしていたら「北斗星ニセコスキー狙いですか?」と声をかけられた。いや、そんなもん運転してるとは知らなかった、恥ずかしいことに。

先を急ぐか迷ったが、待つことにした。小一時間経っただろうか、ふと周りを見ると、撮影者が十数人集まっていた。いいロケーションだと思ったが、そうか、ここは定番撮影地だったのか。そして、まだDDが見えないうちから、山間にエンジン音が轟き始めた。待つことしばし、重連のDDが姿を現す。ゆっくりとこちらに向かってくる。ちょうど、キャブに朝の光が反射した。
 

このあと、帰りの列車として上りの「北斗星ニセコスキー」の開放B寝台を取った(旅程はいきあたりばったりだった)。しかし「北斗星6号」にB個室の空きが出たので変更して、それで帰った。札幌駅に「北斗星ニセコスキー」の発車を見に行ったら、札幌運転所側(手稲側)から、なんとDD51のプッシュプルで入ってきた。札幌駅での着回しを省くためだろうか。また、そのまま函館までプッシュプルだったのだろうか。このDDプッシュプルの写真は全然見たことがない。いや、私が撮っておくべきだったかもしれないが、フィルム時代ということもあって、札幌駅ではまったく撮っていない。
(2013年11月9日追記:検索したところ、上下とも小樽~札幌間でプッシュプルとのこと。下りは小樽まで、上りは小樽から重連)

北斗星ニセコスキーの運転はその年が最後になったはずだ。開放でいいから乗っておくべきだったか。鉄道写真は2005年頃まではかなり撮りに行っていたが、自分ならではの鉄道写真というものがどうしても作れず、撮るのをやめてしまった。先に、この時が鉄道写真を撮るのは初めてと書いたが、翌日の夕方に静狩で撮ったキハ281の写真はRailMagazineで表紙に使ってもらった。その程度の写真は、たぶん、誰だって撮れるのだ。だから、それはとても名誉で嬉しいことなのだけれど、この程度の写真は「作品」というには実におもしろくなかった。




ジェイ・ダイナーの思い出(100系カフェテリア編)
ジェイ・ダイナーの思い出(100系カフェテリア編 その2)
の続き。

車販は、売り物を積んだワゴンを事前に東京または大阪で準備しておき、ワゴンごと乗務する。1列車につきワゴン2台だ。そのワゴンに積んであるのは、記憶では以下の通り。

・コーヒーの入ったポット2本(30杯分)
・コーヒーカップ50杯分
・ビール1ケース
・オレンジ・グレープフルーツジュース各15本
・ウーロン茶15本
・さきいか・ピーナッツ各10

これに、カフェテリアまたはビュフェから、サンドイッチや弁当、飲料、つまみ、タバコ等をさらに積み込んで販売する。今回はコーヒーの話を書く。

* * *

コーヒーは、朝の列車なら東京から京都手前までにA車では100杯以上、時には150杯も売れた。1杯300円、喫茶店と同じように、車内販売はコーヒーと弁当が利益率からいうと非常に重要な商品である。

だから、ときどきコーヒーの売上げに応じて報奨金が出た。私の最高はA車で165杯。A車の定員は625人、およそ3.8人に1人が買ってくれたことになる。コーヒーの売上げの多寡は本当に「腕」による。注文を受け、紙コップをとってポットから注ぎ、蓋をして供卓し、砂糖・ミルクのセットを渡し、会計する。新人はこれだけで1分もかかってしまうが、ベテランは10秒もかからず済ませてしまう。

100系ではカフェテリアまたは食堂車と11号車の車販準備室に、0系ではビュフェにコーヒーマシンがあった。コーヒーマシンは、豆(粉)を大きなドリッパーに200グラム入れ、水を1リットル入れると、沸騰したお湯がシャワーのように粉に降りかかってコーヒーを抽出する。下部のタンクにはポット2本分、貯めることができた。

回送されて入線した列車に乗り込んだ場合には、もちろんマシンは冷え切っている。コーヒーマシンで作るには15分くらいかかる。温まってくると10分くらいでできるのだが、それでもポット1本分だ。朝などは作り続けても間に合わないくらいだ。ポットの交換はデッキにワゴンを留置して自分で補給するか、朝は「単品」やカフェテリアの社員たちがポットを抱えて持ってきてくれた。

列車が終点に近くなるとポット内のコーヒーは捨て、ポットを洗浄する。そういう意味では豆の管理は厳しくはなかった。運転士や車掌にコーヒーを渡すこともあり、休憩時には自由に飲めた。

* * *

冒頭のように、駅で積み込むコーヒーは「基地」で製造するのだが、こちらは巨大なコーヒーマシンで作られていた。粉は1kg。そこに蛇口から熱湯を注ぐ。タンク内にムラができるので撹拌する。それをポットに詰めていた。バイトたちは「もし客として新幹線に乗ったら、コーヒーは車内でドリップしたやつに限るよな」といいあっていた。すでに20年以上前の話だ、当時はファミレスでも煮詰めたようなコーヒーが当たり前だった時代だ。業務用のコーヒーなぞこんなものだと思うが、いまはもっときちんとしたコーヒーになっているように見受けられる。

おもしろいのは、当時、東京営業所はキーコーヒー、大阪営業所はUCCの豆を使っていたことだった。長年のつきあいもあるのだろう。砂糖・ミルクのセットは、東京は何だったかな…大阪はスジャータだった。一度、車内で「おたくのコーヒーの味が好きなんだよ」と男性に言われたことがあるのだが、果たしてUCCかキーコーヒーか、どちらのファンなのだろう…と思いながら、まあ、それには触れずに「ありがとうございます」とお出しした。車内で淹れたコーヒーだったのは幸いだった。

<関連事項>
ジェイ・ダイナーの思い出(大阪まで1日2往復する話)
ジェイ・ダイナーの思い出(0系Y編成・こだま編)
ジェイ・ダイナーの思い出(遅延の話)
ジェイ・ダイナーの思い出(100系11号車多目的室)


ジェイ・ダイナーの思い出(100系カフェテリア編)の続き。

(別の人が写っているので加工しています)
1992年3月からはこの制服になった。帽子は本当は前髪を隠さなくてはならないのだけれど、まあ、それはおいておいて。

その改正で、『のぞみ』が朝晩の2往復、走り始めた。JR東海の力の入れようはすさまじく、選抜した女性メンバーだけを乗務させることになった。途中でいやになってやめてしまった人もいるけれど、補充しつつ、なんとか1年を過ごした。

翌1993年3月の改正で『のぞみ』は毎時1本、博多行きとなった。その直前に、専用クルーとして大量の短大卒を社員として採用した。それまでのグリーン車クルーや社員は全員高卒だったのだけれど、ここで大きくいろいろと変わっていった。稀に欠員が出てどうしても…ということで、ベテランの男性アルバイトが乗務したこともあるが、それは希有な例だった。私は一度だけ、博多往復(現地1泊)をしたことがある。

* * *

いま「1泊」と書いたが、大阪泊まりの乗務コースがあった。個人的にはあくまでもアルバイトなのでなるべく短時間で折り返す列車ばかり乗っていたが、1993年3月改正で『のぞみ』が増えると100系『ひかり』の受け持ちが少なくなり、0系や泊まりコースが多くなった。

泊まるのは、JDの寮である。男性社員が住んでいる、本物の寮。もちろん社員は1部屋をあてがわれているが、アルバイトはその1室に二段ベッドが八つ(と記憶している)ある部屋を使った。先日、大阪に行った際にその寮に行ってみたら、嬉しいことにまだ現役だった。


G編成の場合は、残ってしまった破棄する食材を「まかない」としてもらうことができたので、それを夜食に仲間たちと深夜まで話し込んだ。タバコにいぶされつつ、時にダニにやられつつ。ここに住んでいる大阪営業所社員も乗務で当たることがあり、その人には、みんながなんとなく親近感を持っていた。

この寮は内風呂もあったが、たいていの場合は近くの銭湯「木川温泉」に行った。この木川温泉ももちろん現役。
昼間に見たことがなかったのだが、なんとすてきな建物だろうか。西中島南方駅から歩いて行けるので、新大阪周辺で風呂に入りたい人はここに行くといいだろう。当時は「銭湯」のイメージそのままだったが、いまはどうなんだろう?

名古屋の寮は、なぜかあまり記憶がない。きれいだったからだろうか?

* * *

当時はJR東海もおおらかだったことは前にも書いた。どれくらいだったかというと、運転台に上げてくれたり、客席に座っていても笑って見逃してくれたのだ。

車販ワゴンは運転台または後部運転台(車掌がいる)に達すると「コーヒーいかがですか?」とドアをノックする。断る人はいないので、販売用とは別のプラカップで渡す。すると、「まあ上がって休んでいけや」。運転士にしろ車掌にしろ、よく運転台に上げてくれた。そうすると、意外にも新幹線の高架橋はアップダウンが激しいこと、きちんと勾配標が立ててあることなどが見える。けっこう目視できるものだなと驚く。

対向列車が来ると「ちょっと頭下げておいて」。見つかると面倒なことになるのかもしれないが、それにしてはごく当たり前のように上げてくれた。今思えば、他愛ない世間話しかしていないとうか「彼女はいるのか?」のような話ばかりだった気がする。運転士や車掌にいろいろと話を聞いておけばよかったと思う。国鉄民営化を乗り越えてきた人たちだ。経験も、思いも、話したいことはいろいろあっただろう。

また、日曜夜遅くの東京行きは、ガラガラだった。15、16号車は乗客ゼロなんていうときもある。そんなときは社員もわかっているので「適当に休憩しながら売ってくれればいい」ということで、アルバイトが4人ともB車に集まって無人の16号車で座席を向かい合わせにして休んだりすることもあった。車掌が来ても、笑いながら「ええから、ええから」と言って見逃してくれた。大阪の車掌が多かった気がする。稀には車掌も雑談に加わった。

* * *

いま「社員も」と書いたが、1992年3月改正から、東京営業所持ちのG編成は基本的に女性社員のみになり、1993年3月からは大阪営業所持ちもそうなった。女性社員は高卒で入って2年目、3年目くらいが多く、24歳くらいまで在席している人は稀だった。18歳で新卒で入ってきたばかりのときは当然のごとくアルバイトのほうが歳上かつ経験豊富で仕事もできるので、関係が微妙によじれてしまうのだが、それを気にしない社員とアルバイト立ちの関係は非常に良好だった。

高卒社員たちは、アルバイトをうまく使えば売上げも上がる、逆にアルバイトをこき使うと悪い結果になるということもよくわかっていたんだと思う。アルバイトは優しい社員のためならがんばって働くが、こき使う社員の元では少しでもサボろうとするものだ。現実的な「悪さ」を働かれてしまうこともある。なにしろ乗務は忙しい。乗務中に、各個人が何を何個売って売上金額がいくらあったかを照合する時間などないのだ。

冒頭で書いた『のぞみ』用に採用した短大卒たちとはその関係は築けなかった。

<関連事項>
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ジェイ・ダイナーの思い出(大阪まで1日2往復する話)
ジェイ・ダイナーの思い出(0系Y編成・こだま編)
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ジェイ・ダイナーの思い出(100系11号車多目的室)
1991年秋から1995年春まで、ジェイ・ダイナー東海でアルバイトをしていた(以下JD)。私はJRの東京クルーセンター(以下TCC)というところに所属した。クルーセンターは大阪にもあり、0系・100系の車販と100系グリーン車のクルー(いまでいうアテンダント)専門の部署という位置づけだった。

JDは日本食堂の一部が独立したもので、当時既にJR東海の子会社になっていた。並行してSPS(新幹線パッセンジャーサービス)というJR東海の子会社もあり、JR東海は車販子会社をふたつ持っていたことになる。ただし、それぞれ分担が違っていて、SPSは基本的に100系G編成専門だった。

クルーセンターとは別に、JDには東京・大阪・広島・博多の営業所があり、0系・100系を担当していた。それぞれの営業所でいろいろと違いがあったが、それはいずれ。

(別の友人が写っているためおかしな加工になっていることはご容赦ください・笑)

1993年3月改正まではこのような制服だった。これに帽子が加わるが、このときは休憩中なので外している。今回は100系G編成について書く。

基本的にはTCCからアルバイト4人とグリーンの社員2人が乗り込む。カフェテリア内は営業所の社員が2名、合計8名だ。もちろんさまざまな都合で人数が揃わないこともあり、混雑する列車で欠員が出るとそれは大変だった。一方、ガラガラの列車に8人も乗るとヒマでしょうがない。当時はJR東海もおおらかで、運転士、車掌ともにいろいろ相手をしてくれた。

カフェテリアがあるG編成車販のベースはここ。自由席側を「A車」、指定席側を「B車」と呼んでいた。それぞれワゴン1名、「単品」つまりカゴでの販売1名が担当する。単品はワゴンの商品補充等の補佐もする。主観では、大変な順にA車ワゴン→A車単品→B車ワゴン→B車単品。なお、グリーン車はクルーが注文を取るのでワゴンは回らない。車販基地が8号車1階と11号車、グリーン車は8・9・10号車なので、通り抜けすることができないようになっている。

私がよく乗ったのは、1992年3月改正でできた253A→284Aという行路。そのA車ワゴンを好んだ。253Aは東京16時48分発。満員で少し立ち客がいるという最高の混み方。混みすぎると逆に売れないものだ。ワゴンは名古屋までの2時間で7号車から1号車まで1往復できるかできないか。そのくらい頻繁に呼び止められる。その間、売上げは5~6万、多いときには8万以上。大阪までで多いときには10万。もちろん主役はビールだ。2~3銘柄を混載するが、スーパードライと一番搾りが人気で、モルツと黒ラベルはイマイチだった。

対してB車の基地は11号車の業務用室。飲料はここで補充する。満席だとしても、B車はA車ほど売れない。団体が乗っていたらスカである。売れない車販ほど辛いことはない。ヒマだからといってボケッとしていていいわけではない。いや、本当にガラガラだったら社員も承知で「好きにしてていいよ」と言ってくれるが、混んでるのに売れないというのは辛い。とはいえ、グリーン車を挟んで監視の目も行き届かないB車を好むアルバイトも多かった。

総じて、自由席は並んで乗る都合上、なにも買わずに乗ってくる客が多いが、指定席は座席はあるのでホームで買い込んだ上で乗ってくる。そんなことが売れ行きの違いとして表れる。

* * *

新大阪に着いたら、そのまま新大阪駅の基地で休憩して折り返すか、営業所まで行って納金して休憩して折り返すかの2パターンある。後者には大阪1泊勤務もある。前者の方がアルバイトとしては効率がいいので、それを好んだ。1日2往復も可能で何度となくやったが、18時間労働、2000kmの乗務はかなりしんどかった。それは別の機会に述べる。

大阪の基地はもうどこにあったか思い出せないが、ブロック塀に囲まれた窓もない1室だった。そこに弁当があった。弁当も当たり外れがあり、ご飯と焼きそばのみの「やきそば弁当」は不評だった。そういうときは構内のうどん屋さんに食べに行った。その狭い基地でのアルバイト仲間との談笑は本当に楽しいものだった。

基本的に東京~新大阪、のちに~名古屋を含めて500往復してこのアルバイトを終えた。

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